霊験あらたか!
中臣須牟地神社の特徴
鳥居をくぐり参道を進むと広く抜けた空間が現れる神社です。
神社の隣には池があり、オニヤンマ取りが楽しめる場所があります。
中臣須牟地神社は由緒ある霊験あらたかな神社です。
仕事で近く迄来たのでお参りさせていただきました。御名前からして興味津々です。中臣氏の中臣かなぁと思ったけど違う感じです。豊臣秀吉とかの朝廷からいただいたんでしょうか?お社のつくりも違うしいろいろ宮司さんにおはなしを聞きたいけど普段はいてはれへんみたいですね。
近くにお仕事で行きました。大変由緒が有る神社の様です。歴史に疎くて知りませんでした。
夜に行ったので写真がちゃんと取れていません。境内の中は緑が生い茂っていまして、その周りを巡回するように神社が出来上がっています。神社の周りは大阪の下町住宅街です。
西の端に鳥居があります、参道を東へ進むと広く抜けた空間の出て来ます。左手に小さな社があり、その横から拝殿の裏をぐるっと回って散策する事が出来ます。
すぐ近くに50年ほど前に住んでましたが、神社の横は池でオニヤンマとりなどしてよく遊びました。境内の椿の種で笛作ったり、ビー玉で《じ》したり。夕方には近所の友達らと斜め向いの銭湯に行ってました。周りは全て変わってしまいましたね。
無人の神社では、ありません。朝早く神社の手入れをしている神職がおられます。
霊験あらたか。前の相撲場に土器が出た。南北朝でちいさくなったがむかしは天王寺区まであった。むかし祭事があった。祭殿の左側に社務所の遺跡がある。南北朝時代に焼かれた。今は警官の方にお願いしてある。
中臣は分かるのですが、須牟地が、難しい、由緒ありげで、いい神社です‼️😀
矢田の中にある神社で40年以上前から知ってはいたが地元ではないので来たことがなかったが意を決して今日は訪問。車から見ていると木が生い茂った村の小さな氏神様で歴史を感じさせる様だったが、学生時代歴史で習った中臣氏に関係した神社だそうでビックリする⁉️実際にそうならば中臣氏以前より存在する歴史深い由緒正しい素敵な神社です🎵社務所も管理事務所も無く本殿並びに南東門は閉じられており南西門から木々の立ち並ぶ参道を本殿へ向かう🎵
| 名前 |
中臣須牟地神社 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
06-6702-6835 |
| 営業時間 |
[水木金土日月火] 8:00~17:00 |
| HP |
https://osaka-jinjacho.jp/funai_jinja/dai9shibu/higashisumiyoshi-ku/09020nakatomisumuchijinja.html |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
〒546-0022 大阪府大阪市東住吉区住道矢田2丁目9−20 |
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中臣須牟地神社(なかとみすむちじんじゃ)。大阪府大阪市東住吉区住道矢田。式内社(大)、旧村社。主祭神:中臣須牟地神 (配祀)神須牟地神 須牟地曽祢 住吉大神住道首に代表される在地氏族が奉斎していた祖神に、中臣氏の祖神を祀ったのが当社祭神であろう。【関係氏族】中臣氏資料によると、矢田住道(すんじ)の地域にあるひっそりとした神社ですが、延喜式の格式ある神社です。祭神は中臣須牟地神とともに住吉大神(表筒男命・中筒男命・底筒男命・息長帯比売命)を祀り、中臣氏と住吉大社とのゆかりを感じさせます。「須牟地(すむち)」の名がつく神社は他に「神須牟地」、「須牟地曽祢」があり、今は遷座していますが元はそれぞれ磯歯津路(しはつみち)沿いにあったといわれています。磯歯津路というのは倭の五王の時代(古墳時代)にあった住吉津(すみのえのつ)から喜連に通じる道で新羅など外国からの使節が飛鳥に向かう道でした。「須牟地」には 磯歯津路の路の神であり使節の休息所といった意味があったようです。中臣須牟地神社も当時は現在地より北方の磯歯津路沿いに天神山という小高い丘の麓(現在の矢田北小学校あたり)にあり、外国の使節が来ると摂津、河内、大和から集めた稲で御神酒を醸し使節を歓待しました。その接待役が中臣氏でした。中臣氏はこの地域とつながりが深く、子孫の藤原不比等が、現在「住道(須牟地)廃寺跡」となっている寺を建立したといわれています。古代から鎌倉時代まで天皇即位後の大嘗祭 (だいじょうさい) の翌年、難波津で八十島祭(やそしままつり)という儀式が行われており、中臣須牟地神社はそれにも関わった由緒ある神社と伝わります。のちに天神山麓にあった中臣須牟地神社の地域が河内国丹比郡(たじひぐん)に編入されたため、摂津の地域に中臣須牟地神社の祭神の一座、中筒男命(なかつつのおのみこと)を勧請して出来たのが湯里住吉神社といわれています。とあります。