大響の東にお寺発見!
城岸寺城跡の特徴
大阪狭山線26号の交叉点東に位置する史跡です。
遺構は残っていないが説明書きは充実しています。
周辺のお寺の雰囲気が気になり訪れる方が多いです。
説明書きだけで、遺構等はありません。
大阪狭山線26号を走ってて『大響』の交叉点東に何かお寺があるなと気になっていました。中に入れませんけど由緒書を見てこんな所に昔の城があった事に付きました。此の辺りの地名はとても珍しいので興味が湧いています。⬜️以下由緒板より⤵️史蹟 大饗 城岸寺城跡別名 大饗城ともいう。 大響の地名は天皇の頃、 (約千二百四十年前)丹比行宮の響場であったことに起因すると伝えられる。城岸寺城は南北朝の頃、楠公の一族である和田和泉守 が城ヶ峯と称する周囲濠をめぐらした要害の地に城塞を築いたと されており、現在この濠は昭和五十六年に埋立てられ、城岸寺公園、児童 館が設置された。和田氏は楠左衛門尉成康の二男、太郎親遠から始まり河内から泉州和田 村に居城を構え和田氏を名乗った。(現在の岸和田城)その子、四郎高速、 たいようだけ その孫、正遠(正成の甥)その子孫、高家、正武等が城岸寺城に居を 構えた。正平七年(約六百六十年前)和田助氏の軍忠状(自分の手柄を 記した書状)に大饗城の名が見えることは大阪府史、狭山町史に記 載されている。その後、元享年間(約六百九十年前)に融通念仏宗、 中興の祖、法明上人が河内の国、念仏進の際、病気平癒のため、当城 岸寺を建立し、現在当寺に伝わる通称「たくまはん」と呼ばれる阿弥陀 もいないこ 如来来迎図があり信仰を集めている。「たくまはん」はその昔、一世を 風靡した狩野派、巨勢派(巨勢の金岡は金岡神社の祭神)と並び称せられた 宅磨派宅磨法眼良賀の作といわれている。昭和五十六年に現在の本堂が はくっ こんきゅう 建立された時発掘調査が行われ南北朝の頃(約六百七十年前)と推測さ れる建物跡が発見された。尚、境内植込の石臼は前の本堂建立の際(約百九十余年前)に基礎石として、使用されていたものである。 無量山 城岸寺以上、由緒板より転写⤴️
| 名前 |
城岸寺城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| 評価 |
3.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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遺構は残っていません。隣の公園は堀跡だそうです。