かんぽの宿で城址巡り、自然を満喫!
嶽山城跡(龍泉寺城跡)の特徴
かんぽの宿富田林のテニスコート奥にひっそりと佇む城跡です。
城址碑と説明板があり、歴史を感じることができます。
到着までの道中では美しい景色が楽しめる場所です。
楠木七城の一つ。楠木正成の弟・楠木正季が龍泉寺城でいた事もあって太平記の中で『龍泉寺殿・龍泉殿』と呼ばれてます。
かんぽの宿のテニスコートの奥にあってわかりづらいです。山の上にはあるので難攻不落な砦であったことは想像できます。
かんぽの敷地内での温泉掘削工事中で行けませんでした。
城の跡だったらしい。
かんぽの宿からの案内板がなく、GPSで位置を確認して到着。石碑や看板はあります。
かんぽの宿からすぐ。以前、NHKで応仁の乱の歴史番組をやっていた時に、獄山城に立てこもった畠山義就の解説をドラマ仕立てで見ました。なので、一度は来てみたいと思っていました。でも、石碑があるだけで興味のない人にはつまらないかもしれません。とは言いつつ、中世には、このあたりは何度も激しい戦場となっていたようで、付近を散策すれば何となく当時の面影を見つけることができるかも。以下、解説板の内容です。「獄山城址(龍泉寺城址)獄山城(だけやまじょう)は南北朝時代初期、元弘2(1332)年楠正成(くすのきまさしげ)によって築かれた城である。「太平記」巻34(龍泉寺軍の事)によると、楠正儀、和田正武が大和、河内の南朝の兵1000人余りを山の頂上の窪地に籠らせ守っていたが、寄手が攻めてこないため100人ほどを残し、大半の兵を他の戦場に移した。この時、木の梢などに旗を結わえ大勢が籠っているように見せかけたため、廿山(つずやま)にいた寄手の陣では四方手を立てたような山に大軍が籠っていると思い、鬼神でも攻め落とすことはできないと徒(いたずら)に150日余りを過ごした。ある日、才覚ある老武者が、天に飛ぶ鳶(とび)や林に帰る烏(からす)が驚かないのは、旗ばかり立て大勢籠っているように見せかけているだけだと見破ったため、正平15(1360)年細川清氏、赤松範実たちによって攻め落とされた。その後、河内の守護畠山氏の内紛により、再び城として戦場になり、永正5(1508)年に落城したといわれている。」
城址の石碑と説明板がある。鬱蒼とした茂みにあり雰囲気は良い。かんぽの宿の建物正面左手からテニスコートへ向かい、一つ目のコートの左手に小道があってそこを進むとすぐ(写真参考)。なおGoogleマップの道を辿ると立ち入り禁止の柵があってそれ以上先には進めなかった。
景色の良いとこですね🎵
かんぽの宿富田林のテニスコートの裏にひっそりと城址碑と説明板がありました。遺構などは皆無です。この地点からは木が鬱蒼としており視界が悪かったですが、この付近はかなり見晴らしが良い所で、昔お城があったことも頷けます。
名前 |
嶽山城跡(龍泉寺城跡) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.1 |
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テニスコートの横にありました。あまり人が来ないのか少し藪になっていました。