栂尾城跡で戦国の夢を追う。
栂ノ尾城跡の特徴
富山市舟新に位置する戦国期の山城で、栂尾城跡の魅力は歴史にあります。
曲輪や堀切が所々に残り、散策に挑戦する楽しさが楽しめます。
標高279mからの絶景は、モノ好きにはたまらない体験です。
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細長~い稜線上に曲輪、堀切♪切岸♪が見れたどの尾根から登ってもヤブが多く モノ好き向け だと思います🤭標高約279m
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| 名前 |
栂ノ尾城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
3.3 |
| 住所 |
|
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栂尾城跡(とがおじょうあと)は富山市舟新の山上に残る戦国期の山城で、別名戸川城・舟倉城とも呼ばれる。塩屋秋貞の築城伝承や謙信による攻略が伝わり、標高280m比高140mの尾根上に曲輪や堀切が残る。戦国時代の後期、越中と飛騨を結ぶ街道筋は諸勢力が注目する要地であった。富山市舟新の丘陵に築かれた栂尾城もそのひとつで、尾根の先端を利用した山城である。築城者は飛騨の塩屋筑前守秋貞と伝えられ、元亀2年(1571)頃に猿倉城と並んで飛騨口を押さえる拠点として構えられたとされる。ただし、これを直接裏付ける文書はなく、伝承の域を出ない。唯一同年4月の長尾景直の書状に猿倉城の普請が見えることから、栂尾も同時期の築城と推定されている。城は標高280m前後の山上にあり、比高は約140m、別測では標高267.4m比高117mとされる。城域は東西50m、南北100mほどで、曲輪を階段状に配し、堀切と土塁で区画していた。調査報告書(大山町教育委員会『中世城館調査報告書』1990)では図10に遺構が示され、主郭・二郭・堀切が確認される。堀は尾根を断ち切る形で掘られ、防御を強めていたことが分かる。虎口の位置から麓の市場側が主要な出入口であったと推定されるが、あくまで考古的復元の段階にとどまる。歴史の舞台に登場するのは天正4年(1576)の上杉謙信の越中侵攻である。9月8日付の謙信書状には「栂尾・増山落居」の記述が見え、栂尾城がこのとき落城したことが確実に分かる。これは一次資料に残る数少ない事実であり、伝承に彩られた築城経緯と対照的である。その後、城は再利用の形跡が乏しく、戦国末期には廃絶に向かったと考えられる。別名は多く、戸川城・舟倉城・外川城・戸加尾城などが文献に現れる。『三州志』や『越中志徴』には塩屋氏の活動とともにその名が見える。秋貞は塩の交易で財をなし、越中へ勢力を伸ばした人物とされる。市場という地名は彼がここに市を開いたことに由来するとも伝えられるが、典拠は近世以降の地誌であり確証はない。城の内部に「抜け穴」と呼ばれる大穴があるとの言い伝えも残るが、調査報告書では井戸状の窪地として記録されるにとどまる。周辺には猿倉城があり、同じく飛騨口を押さえる拠点として築かれた。両城は並立して越中南方の防衛線を形成したとみられる。また、謙信が越中を制圧する過程では増山城や湯山城などとの連携が図られており、栂尾城の落城もその一環であった。地域の城館調査報告書では、湯端城や日尾城なども合わせて比較対象に取り上げられ、尾根や段丘を利用した城郭群のひとつとして位置づけられている。今日、栂尾城跡は文化財指定を受けていないが、大山町教育委員会の調査や奈良文化財研究所のデータベースに記録されている。現地には建物は残らないが、堀切や曲輪の遺構は今も形をとどめ、訪れた者は当時の山城の構えを想像することができる。栂尾城跡は、越中の戦国史における一断面を具体的に伝える遺構である。築城の伝承、謙信の攻防、そして地域に残る口碑が重なり合い、確実な史料と伝承が交錯する場となっている。山林の静けさに包まれた尾根の上に立てば、往時の緊張と営みが垣間見える。