南北朝時代の城跡碑を訪ねて。
岸和田古城跡の特徴
中学生の喧嘩の場所として知られる史跡です。
楠木正成が築いた城郭の伝承が残る地です。
城跡碑と説明板があり歴史を感じます。
ここは中学生の、喧嘩の場所。 周りはヘドロでした。2トン車で全て捨てるのに、2日間5台でその上に家が建ってるにが意味が分からない。畳カビ生えなすよ!
アパートの片隅に石碑と説明板があるだけで当時の面影は全くありませんでした。
南北朝時代、楠木正成が三ヵ国を受領し、その内の1つ岸の地に、甥の和田高家に下命してこの地に城郭を築かせたと言われています。これが岸和田と呼ばれる所以となっていますが、江戸時代以降の伝承に過ぎず、それ以前の事は一切伝わってはいません。江戸時代に作成されたであろう古城図には堀や曲輪、本城の長さや深さ、東西南北の記述に加え、元禄7年、文政9年等の文字も見受けられます。15世紀後半に築造、16世紀初頭には廃絶との事。南北朝時代に多く見られた山城から平山城、平城への過渡期の中での築城と思われます。現在見受けられる何層も重ねられた上に天守閣がそびえるような大掛かりな城では無いので、戦さから住民を守る為の緊急避難場所的な平城もしくは平山城が、この地に存在していたかも知れません。江戸時代に切磋琢磨しての古城図作成に感謝し、現代の市民レベルでの歴史を後世に残そうとする熱い心いきに、深く頭を垂れる次第であります。尚この碑の裏側にも何か刻まれていますので、ご注目下さい。
長らく和歌山県に単身していますので、場所を探すのに一苦労しますね…。
この城跡碑は、元々この住宅分譲地の真ん中辺りに建ってました。建武の新政時に当時「岸」と呼ばれた地に楠木正成の甥である和田(みきた・にきた)高家が居城したと言われるこの場所が、「岸和田」のルーツです。市が所有せず、売却され、宅地になったのは、誠に残念ですが。
建武元年(1334年)摂津・河内・和泉の三ヶ国守護に任ぜられた楠正成が一族和田高家をこの地に代官として派遣し、城を築かせたと伝えられている。「和田氏居城伝説地」の石碑が建てられている。
城跡碑と説明板がありました。住宅街の一角につき遺構などはありませんでした。
名前 |
岸和田古城跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
072-423-9688 |
住所 |
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HP |
https://www.city.kishiwada.osaka.jp/soshiki/70/sinai-iseki.html#kamakura |
評価 |
3.0 |
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以前訪問時はすり鉢状の田圃でその田の中に島状に藪地が広がって城跡を彷彿とさせる光景だったが跡形も無し。