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明治六年(1873)の「廃城令」により全国各地の城郭陣屋などの建造物はほんの一部の例外を除いて、破壊され尽くしました。ここ古河城も同様の運命をたどりました。ここにある「袖蔵」「文庫蔵」は破壊を免れた古河城の貴重な数少ない遺構だそうです。「袖蔵」は「古河城乾蔵」として文久三年(1863)に完成したそうです。その建築の動機は「文庫蔵」と同様に「おたすけ普請」の意味合いが強かったのだと推察されます。「おたすけ普請」には古河の商人達も莫大な資金負担を余儀なくされた事は、容易に想像出来ます。これはあくまで私の推測なのですが、明治政府に高額な金を払ってまで「払い下げ」を受けたのは自分達の血と汗の結晶の「蔵」を、その完成から僅か10年で破壊されるのを見るに忍びなかったからではないでしょうか。