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| 名前 |
顕彰碑 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
3.0 |
| 住所 |
|
後台村野中の農夫利平衛とその長男善重・次男与重は苦しい暮らながらも父を助け家業に精を出していたが、暮らし向きは良くならず、しかも天明3(1783)年の飢饉が一家をさらに苦しめましたが、兄弟は村や村人のためにも懸命に尽くしました。弟与重に養子話が出た時は、与重は後台村は戸数少なく、また老父も本意ではなかろうと受けず。兄善重は、ならば弟に分家して田畑を分けようと申し出たが、兄の土地が減ることを心配した与重はそれも受けず。父を思い村を思い兄弟譲り合う姿勢が郡奉行の耳に入り、褒賞された。さらに、水戸徳川家六代目藩主・徳川治保が瑞龍山への墓参りの途中で兄弟を呼び寄せ、手ずから褒美を与えたそうです。なんという細やかな目配りでしょうか。水戸藩主としては、光圀や斉昭ばかり有名ですが、荒廃した藩政改革に心血を注いだ、中興の祖と呼ばれた治保こそが水戸藩最高の名君かも知れませんね。狭い田圃道の脇の小さな茂みに隠れるように建つ顕彰碑の題字「錫類」とは「子孫に善行を広めること」の意で、茨城県県知事・力石雄一郎、書は那珂郡長・丹誠によって、大正7年に建立されたものです。