房総半島と犀川の歴史を感じる。
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| 名前 |
犀川通船記念碑 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[火水木金土日月] 24時間営業 |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
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かつて千葉県内各地をサイクリングで訪問していた頃に、房総半島中央部にある高滝湖から養老川を下って江戸まで木材が運搬されていたことを知って驚いた記憶があるが、長野県の中心部から犀川を下って船が運航されていたとは知らなかった。どうやら、善光寺街道徒歩の旅の後に犀川通船となり、さらには鉄路篠ノ井線が、そして高速道路長野道が開通したという順番らしい。記念碑が建つ女鳥羽川の対岸に渡れば、地元白板地区の史跡研究会の手になる「犀川通船乗船場跡」の看板が建っており、それによれば「明治の最盛期には三十艘以上の船が行き来し、上りは綱で船を引き五日、下りは七時間ほどで新町についた。」とある。下りの七時間は相当に早い印象だが、上りの五日については全く想像できない。当時の痕跡はこの世から消失してしまったようだが、この碑が確かにここから善光寺平に向けて船が出ていたことを証明している。碑に記載されている内容。犀川通船は信府松本城下と善光寺平を結ぶ水路として 文政五年筑摩郡庄内組白板村の折井儀右衛門 宮渕村の赤穂勘右衛門 水内郡新町村の大内源之丞の出願により天保三年一月二十八日 十二年の曲折を経て許可され 同年八月開通したはじめ白板新町間を区間として通航したが 水路は伸びて善光寺平に及んだ明治四年廃藩に至り その独占権と多年抗争を重ねた善光寺街道各宿との約条も破棄され 人貨の運輸も自由となり 数隻の船が連日就航して賑わった明治六年十月 儀右衛門の子孫折井良吾は改めて通船問屋を建て 松本と長野方面との舟運にあたり 舟は千歳橋まで上下した別に勘右衛門の子孫赤穂益作は新橋を起点とし 両者が併立したが 明治二十五年合同して通船会社を起したこの水路は明治三十五年鉄道篠ノ井線の開通によりまず衰え 昭和十三年陸路犀川線の全通により全く廃され その歴史的な使命を終った今年明治百年の年にあたり 先人の創意と当地方運輸の既往を憧い 通船発着の基地に碑を建てこれを記念する昭和四十三年六月 松本市。