日本最古の戎神社で安らぎ体験。
石津太神社の特徴
毎年12月14日に行われるやっさいほっさい祭が魅力的な神社です。
紀州街道沿いに位置し、歴史を感じる石津太神社で安らぎを得られます。
延喜式内社として日本最古の戎社を祀り、特有の雰囲気を楽しめます。
平日昼間、宵戎へ行ってきました。参拝に来てる人はパラパラで雰囲気は、アットホーム感があってゆっくり楽しむことが出来て凄く良かったです!後、飾り物を購入したら嬉しい、ガラガラの引換券もえました!ティッシュとサランラップもらったよ。また来年も絶対行きたいです。駐車場は鳥居の横の細道から入って直ぐの、鳥居の裏手混雑時は人が沢山通るので停めれないと思った方がいいです。もしくは、駅周辺のコインパーキング。
【石津太神社 IWATSUTA SHRINE】住所: 大阪府堺市西区浜寺石津町中4丁12-7主祭神: 蛭子命、八重事代主命、天穂日命配祀: 建御名方富命、天照大神同市西区石津町の石津神社と比定され、どちらも戎神の降臨の地として「日本最古の戎宮」を称しています。どちらかが本社どちらかが御旅所か分社と考えられている論社。伝承では、伊奘諾命・伊邪那美命によって流された蛭子命がこの地に漂着し、携えていた五色の石を置いたと言われています。その石を置いた場所を「石津」としこの地の名称にもなっています。五色の石は一の鳥居の前に埋められたと伝わる。第5代天皇である孝明天皇(BC469年)の勅願により蛭子命を祀る社殿を造営した事が創建。八重事代主命と天穂日命も合祀した。平安朝以後も朝廷の崇敬を受け、幾度の御幸の記録もあります。かつては広大な社領を有していましたが、数度の兵火により社殿を焼失。豊臣秀吉が大阪城を築城した際に裏鬼門の鎮守神として崇敬され、秀吉家臣の木村重成は黄金を寄進し社殿復興に努めた。本殿は江戸時代前期に造営された二殿があり、蛭子命・八重事代主命・天穂日命を祀る北殿は一間社流造、建御名方富命・天照大神を祀る南殿は一間社春日造である。宝暦年間に造営された両殿に共有する割拝殿は入母屋造となっています。石津川北岸の大阪湾手前の河口には、葦舟に乗った蛭子命(戎神)が漂着したと伝えられる場所があり、現在は御旅所として祀られています。
12月14日の火渡り神事は圧巻!自らも火渡り初体験で貴重な思い出が残せました。
旧社格は村社、式内社、主祭神は蛭子命、八重事代主命、天穂日命、創建は孝昭天皇7年(紀元前469年)本殿の様式は一間社流造り、一間社春日造り、石津神社と共に「和泉国大鳥郡石津太神社」の論者で有り、どちらも「日本最古の戎社」を称している、五代孝昭天皇の御代蛭子命を祀る社殿を建てたのが石津太神社の始まりだという。
石津神社と石津太神社は、元々はどちらも、『元祖で本家』で、同じだったと思われます。まるで、かつての『ヒロタのシュークリーム』みたいなものでしょうかね?知らんけど。因みに、西宮神社の起源は『和田岬の沖に出現した蛭子命の御神像』で、石津太・石津の両神社は『葦船で流された幼き蛭子命の、漂着・降臨の地』なので、当然「日本最古の戎宮」となります。これも「ものの始まりなんでも堺」に入ってるのでしょうかね?知らんけど。
紀州街道沿いにある神社。街道歩きや、ポタリング時には是非‼️
すぐ近くの石津神社と「日本最古の戎社」説を二分する神社やっさいほっさい祭という火渡神事が12月に斎行。
正直、石津神社のほうが色々整備が行き届いているように見える。頑張って欲しい。
延喜式内社として我が国最古の戎社。「えべっさん」としては今宮戎や西宮戎より古いと言われています。そんなに広くない境内に大きな大きな楠木が枝を広げています。駐車場🅿️はありますが神社鳥居⛩️横の狭い道を入ります。御朱印は書き置きでした。
| 名前 |
石津太神社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
072-241-5640 |
| HP | |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
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石津太神社(いわつたじんじゃ)。大阪府堺市西区浜寺石津町中。式内社(小)論社、旧村社。主祭神:蛭子命 八重事代主命 天穗日命(配祀)天照大神 (合祀)建御名方富命【関係氏族】石津連延喜式当時は、石津連がその祖神・天穂日命を祀った氏神社だったと思われる。資料によると、同市堺区石津町の石津神社(いしづじんじゃ)とともに、式内小社「和泉国大鳥郡 石津太神社」の論社であり、どちらも「日本最古の戎社」を称している。この地は元は浜辺であったとする。日本最古の戎社といい。蛭子命がこの地の海岸に漂着し、命が携えてきた五色の神石をこの地に置いたことから石津という。孝昭天皇の代に創祀という。12月14日は「ヤッサイ・ホッサイ」という火祭りが行われる。この神事は蛭児命が舟で漂着した時凍死寸前だったので浜の漁師たちが百八のわら束を積み、火を付けて命の身体を暖めて助けた故事から八束、百束が「ヤッサイ・ホッサイ」に転じたという。『泉州志』(在下石津村河側)、『和泉志』(在下石津村)、『神祇史料』は当社を式社とする。上石津にある石津神社とともに戎神を祭ってある。「延喜式」に「石津太神社一座」とあり、どちらかが本社であり、御旅所であったのであろう。とあります。