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| 名前 |
焼山城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
3.5 |
| 住所 |
|
焼山城は永禄7年(1564)7月4日、上田長尾家当主で魚沼郡上田荘坂戸城(南魚沼市)主・長尾政景(夫人は上杉謙信の姉・仙洞院)が坂戸城麓の野尻池で溺死してしまいました。政景の遺児である長尾喜平次は上杉輝虎(謙信)の養子となりました。これが謙信の次に上杉家当主になる上杉景勝です。喜平次は春日山城に父の死後やってきました。その喜平次(上杉景勝)の補佐役として樺沢城代であった宮島三河守の一族43名が上杉謙信に呼び寄せられて1万石の武士として春日山城三の丸付近に屋敷を構えました。宮島三河守の長男・宮島若狭守吉房が上越市板倉区宮島に館を作り、曽根田集落に焼山城を作りました。これが焼山城の始まりです。文禄2年(1593)に若狭守吉房が亡くなり吉房の子・宮島与八郎吉則が1030石の二代目焼山城主となりました。慶長3年(1598)3月に上杉景勝が越後国春日山城から陸奥国会津(福島県会津若松市)に移封となり、宮島氏の焼山城主としての役割は終わったと考えられてます。本丸山頂から曽根田集落の入口まで軍用道路や庚申塔や馬頭観音もあります。上越市板倉区と長野県飯山市との信越国境を守った御天山城主・福王寺彦八郎孝重、焼山城主・宮島若狭守吉房、小嶽山城(現在は遺構は崩壊)主・高梨源五郎の「謙信公根越三城将供養堂」も道中にあります。