歴史を感じる石積み、犀川の宝。
旧大野庄用水取水口の特徴
金沢市片町の犀川河畔に位置する歴史的な取水口です。
石積み造りの美しい古い建築物が魅力的です。
大野庄用水の隧道出口に銘板が設置されています。
大野庄用水の隧道出口に銘板あり。上部に「大正四年」とあることから、この時期に隧道を整備したと考えられる。その左右に人名などが彫られているが読めない。かっては、このあたりから取水していたが、河床が下がったため上流で取水するようになっていったのだろう。昭和3年の御大典紀念の銘板もある。「旧伝馬町標柱」の所からしばらく開渠が続く。
| 名前 |
旧大野庄用水取水口 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[日月火水木金土] 24時間営業 |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
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旧大野庄用水取水口(きゅうおおのしょうようすいしゅすいぐち)は金沢市片町の犀川河畔にある、歴史を感じさせる石積み造りの古い取水口だ。大野庄用水の起点として犀川から水を引き入れ、400年以上前から金沢の町を潤してきた、最古クラスの用水施設だ。この大野庄用水が整備されたのは伝承では天正年間(1573~1591年)頃とされる。前田利家や二代藩主利長の家臣・富永佐太郎という人物が開削に携わったと伝えられている。ただし、この人物については史料が乏しく、あくまで伝承の域を出ないらしい。はっきりした記録がないというのも、逆に歴史の深さを感じるところだ。大野庄用水は、最初は犀川下流の農業用水として開削されたらしいが、金沢城が築かれて城下町が整備されると、多目的用水へとその役割を広げていく。灌漑用水、飲料用水、火事に備える防火用水、さらには冬の融雪用水として活用され、暮らしの基盤そのものになった。中でも特筆すべきは、金石港からの物流だろう。寛永8年(1631年)の金沢城改修時には大量の木材がこの用水を通じて運ばれ、「御荷川(おにがわ)」の別名で呼ばれるようになった。鬼川とも表記されるが、これは物資を意味する「御荷(おに)」の当て字で、決して恐ろしい意味ではない。地元の伝承では「鬼が出た」という話もあるが、これはおそらく後世の想像の産物だろう。旧取水口の現在の姿は、1915年(大正4年)、大正天皇の即位の礼(御大典)を記念して改修された時のものだ。半円形のトンネル状に石が積まれ、堂々とした扁額には「御大典記念」「大正四年」と刻まれている。いまは桜橋上流に新しい取水施設が設置されており、この取水口は役割を終えているが、その遺構には金沢の水の歴史がくっきりと刻まれている。用水沿いには他にも歴史的スポットが点在する。中橋町付近の木揚場跡は、かつて港から運んだ材木を水路から引き上げた場所で、推定樹齢数百年というスダジイの古木が往時の面影を今に伝える。さらに用水の途中には「三社どんど」という水門があり、その名前は水が落ちる際の「どどど」という音に由来するそうだ。大野庄用水は単独ではなく、金沢市内を流れる鞍月用水や長坂用水などの用水網と連携して城下町を網の目のように巡っている。特に長町武家屋敷跡周辺では土塀に沿って緩やかに蛇行しながら流れていて、用水から引き込まれた水が武家屋敷の庭園美を引き立てている。さらに用水は夏にはゲンジボタルが飛ぶような豊かな自然環境も支えていて、市街地ながら清らかな水が守られてきたことがよく分かる。用水にまつわる逸話では、江戸初期に片町周辺で女歌舞伎の興行が行われていたという話もあるが、これはまだ明確な史料が確認されていない。ただ、この界隈が早くから娯楽や芸能の場として賑わったのは事実で、明治以降も芝居小屋や茶屋街が栄えた土地だ。水辺は昔から人を集める力があるのだろう。この旧取水口と大野庄用水は、全国的にも評価されている金沢疏水群の一つとして「疏水百選」にも選ばれている。400年の歳月を経て変わらぬ水の流れは、この町の発展を陰ながら支えてきた立役者だ。派手さはないが、町歩きを楽しむときには、この水路の流れとそれを守ってきた先人の知恵を感じながら歩いてみるのも悪くない。この取水口は決して観光地として派手に宣伝されてはいないが、地味な姿の中にこそ、この町の暮らしと歴史の深みがあるように思える。これからも、変わらず金沢の水の歴史を静かに伝えていってほしい。