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名前 |
敷地一里塚跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.5 |
敷地一里塚跡(しきじいちりづかあと)は、江戸時代初期に徳川幕府が全国に整備した街道のマイルストーン「一里塚」の一つで、石川県加賀市大聖寺敷地に位置する。今は塚そのものは残っておらず、道路脇に立つ案内板と石碑が往時の存在をひっそりと伝えている。慶長9年(1604年)、徳川家康は江戸日本橋を起点に東海道をはじめとした主要街道に、約4キロごとの一里塚を築かせた。その目的は距離を測るだけでなく、榎(えのき)などの大木を植えることで旅人や商人たちに目印や休憩場所を提供することだった。敷地一里塚もこうした全国的な交通網の整備の一環として、北陸地方を結ぶ北国街道沿い、加賀藩領内に設置された。当時、一里塚は街道の両側に5間(約9m)四方の大きさで土が盛られ、その上に丈夫で根張りの良い榎が植えられた。榎は強靭な根を持ち、雨風に耐えるだけでなく、旅人に涼しい日陰を提供する役割も担った。この塚の間隔が旅人の目安となり、また飛脚や馬借たちの料金計算の基準にもなった。北国街道は加賀藩にとって特に重要な幹線だった。江戸時代、加賀百万石の威信を示す参勤交代ルートとしても利用され、金沢から江戸まで約470キロの道のりを12~15日で往復していたという記録がある。加賀藩では街道整備に力を入れ、街道筋には松並木を植えて整然とした交通路を作り上げ、一里塚もその一環として欠かせない設備だった。実際、能美市に現存する「吉光一里塚(よしみついちりづか)」は県内唯一の現存例であり、その榎の木は1934年の大洪水にも耐え抜いたという逸話も残されている。敷地一里塚の周辺には、かつて加賀藩の支藩だった大聖寺藩の城下町が広がっており、大聖寺の中心部に向けて宿場町が形成されていた。ここには本陣、旅籠、商店が立ち並び、賑わいを見せていた。さらに、西側(越前方面)へ向かう街道筋には「大聖寺関所」が置かれ、藩領の安全と管理を担っていた。大聖寺宿の東端に位置した敷地一里塚は、この関所や宿場町と一体化した街道システムの中で、旅人の流れを支える拠点として機能していたと考えられている。天保4年(1833年)の史料『三州測量図籍』によると、この一里塚は敷地村から東へおよそ1キロの地点、現在の春日町のバス停付近にあり、明治初期に民間に払い下げられ、塚そのものは耕地化され姿を消してしまった。しかし、塚のあった場所付近には、加賀藩時代に処刑された罪人を弔うために建てられた「涙地蔵」と呼ばれる地蔵尊が残されている。この地蔵は昭和54年(1979年)のバイパス工事の際に現在地に移転され、文化7年(1810年)頃の絵図にも描かれていたことから、少なくとも200年以上の歴史を持つと言われている。敷地一里塚跡そのものは史跡としては地味で、知らなければ見過ごしてしまうような小さな案内板があるのみだが、その背景には徳川幕府の街道政策や加賀藩の交通整備、そして旅人や商人たちの生活が凝縮されている。吉光一里塚や大聖寺宿、大聖寺関所跡など周辺の史跡と併せて見ると、単なる目印としての塚ではなく、江戸時代の旅や流通、さらに藩政の実態が色濃く浮かび上がってくる。敷地一里塚跡は、そうした歴史の一片を静かに伝える貴重な場所だ。失われてしまった塚そのものに想いを馳せながら、その場所が持つ歴史の重みをじっくり感じてみるのも面白いだろう。何気なく通り過ぎてしまう道端の史跡にも、かつて日本中を結んだ交通の要所としての壮大な歴史が刻まれているのだ。