スポンサードリンク
スポンサードリンク
名前 |
八日市一里塚跡 (都戻り地蔵) |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
4.5 |
八日市一里塚跡(ようかいちいちりづかあと)は、石川県加賀市八日市町にある旧北陸道(北国街道)の歴史を静かに伝える場所だ。この場所は、かつて江戸幕府が慶長9年(1604年)に徳川家康の命令で設置した一里塚の跡地である。そもそも一里塚というのは、江戸時代に街道を整備するために設置されたものだ。江戸日本橋を起点として街道の両側におよそ一里(約4キロ)ごとに築かれ、旅人たちが距離の目安や休息場所として使えるようになっていた。塚の上には榎が植えられ、遠くからでもよく目立ったという。ここ八日市の一里塚は加賀藩の領内18か所の一つで、橘茶屋(現加賀市橘)から倶利伽羅峠までの18里(約74キロ)のうちに築かれていたものだ。この八日市一里塚は江戸時代の文献によれば、天保4年(1833年)の『三州測量図籍』に「八日市村より260メートル動橋村寄り、都戻り地蔵の西30メートル」と位置が明記されている。ただ、時代が明治に移るとともに塚は廃止され、土地も民間に払い下げられて水田となった。現在、塚の盛土そのものはほぼ消失し、当時の土塁がかろうじて残っているかどうかという状態だが、跡地を示す石碑と案内板が設置されていて、往時の場所を明確に伝えている。さて、この一里塚のもう一つの特徴が「都戻り地蔵(みやこもどりじぞう)」だ。これは塚の東側近くに建てられている地蔵尊で、鎌倉時代初期に歌人の西行法師が弟子の西住(西浄)との別れを惜しんだ故事に由来すると伝えられている。平安末期から鎌倉初期、西行は各地を旅し、多くの和歌を残した僧侶として知られている。西行が北陸地方を旅した際にこの加賀の地を訪れた。その折、西行は京都へ戻ることになり、この場所で弟子の西住と別れを惜しんだ。その際、西住が自らの想いを込めて「身代わり」として祀ったのがこの地蔵尊だと伝えられる。つまり、「師と再び都(京都)で再会できるよう願う」との意味を込めて、「都戻り地蔵」と呼ばれるようになったわけだ。現地の説明板によると、この地蔵尊は昭和38年(1963年)8月6日に加賀市の指定史跡となっている。地域の人々にも古くから親しまれ、大切に守られているという。この地蔵像については、一時期首部が破損したため補修されているという口碑もあるが、公的な資料には明確な記録は見られない。そのため伝説の一つとして受け止めるのが妥当だろう。石像そのものの正確な制作年代は資料がなくはっきりしないが、江戸後期から明治にかけての作と推測されている。八日市一里塚跡の位置する旧北陸道(北国街道)は、江戸時代には加賀藩主前田家が参勤交代の際に使った主要路線だった。特に北陸道を通って中山道経由で江戸へ向かうルートが頻繁に使われ、旅の途中で休息したり、距離を測ったりするための一里塚は欠かせない存在だった。八日市周辺には他にも一里塚跡があり、動橋町の月津一里塚跡や、加賀と越前国境に設置されていた一里塚跡など、いくつもの史跡が残されている。石川県内では能美市の「吉光一里塚」だけが土塁を含めて現存しているが、この八日市の一里塚は案内板や石碑だけでも地域の歴史を語る上で重要な史跡であることには変わりない。一里塚という史跡は一見地味だが、街道を旅する人々にとってはまさに道中の命綱であり、街道整備や交通政策という幕府や藩政時代の社会制度を示す証拠でもある。また、この八日市一里塚のように、「都戻り地蔵」のような逸話と結びつくことで、歴史的な味わいも増している。現在、八日市一里塚跡の現地は静かな雰囲気で、観光地化されることなく地元の史跡として静かに保存されている。石碑と説明板だけだが、それがむしろ、かつてこの道を歩いた人々の日常をありありと思い出させる。歴史の大きな流れを支えたのは、実はこうした小さな場所なのだということを、ここに立つと感じさせられるのだろう。この史跡を訪れた人が何を感じるかはそれぞれだが、少なくとも、かつてこの場所が地域の交通の要所として重要だったこと、西行という歌人の伝説が今も静かに息づいていることを、改めて思い知ることになるに違いない。