スポンサードリンク
スポンサードリンク
名前 |
明徳元年在銘宝篋印塔 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
4.0 |
高崎市指定重要文化財。案内文並びに高崎市文化財ホームページより抜粋すると、宝篋印塔は中国で密教を大成させた高僧不空三蔵の教えからきた名称で、「宝篋印陀蘿尼経を写して塔の中に置き、一香一華を供えて礼拝供養すれば、八十億劫生死(ごうじょうし)重罪が一時に消滅し、生きている間は災害を免れ、死後は必ず極楽に生まれ変わることができる……」ことを願って鎌倉時代以降、多く造立されている。この宝篋印塔は、西横手町にあり明治五年(1872年)に廃寺となった西福寺にあったもの、笠が二つあることから、二重式宝篋印塔、あるいわ須弥壇に似た形から須弥壇式宝篋印塔とも呼ばれる形をしている。この形式は、群馬県と埼玉県北部にのみ分布する特殊な形式である。高さ290cmと群馬県内最大級の大きさで、銘文に「一結衆等逆修 明徳元年庚午十月日」と刻まれており、明徳元年(1390年)に逆修(生前自分の冥福を祈ること)の為に造られたものである。当時は南北朝の争乱が一応終結する頃で、明徳は北朝の年号で、その頃の上野国の動静を探る手がかりにもなるという。明徳は北朝の年号だとすれば、この辺りは幕府よりだったわけでしょうか?