八丁畷駅近く、命の記憶。
無縁塚の特徴
八丁畷駅横に位置し、歴史を感じる場所です。
江戸時代に多くの人骨が発掘された供養碑があります。
災害によって亡くなった人々の霊を供養する遺跡です。
場所は、八丁畷駅すぐ横にあります。川崎宿を出て横浜方面に向かう道を「八丁畷」と呼んでいました。この付近では江戸時代以降多くの人骨が発見されており、戦後の道路工事などでも度々掘り出され10数体にも及んだといいます。東京大学による鑑定の結果から江戸時代頃の特徴を備えた人骨であることが判明し、当時の震災、大火、洪水、飢饉や疫病などの災害で亡くなった身元不明の人々を宿場のはずれの八丁畷の並木の下に埋葬したのではないかといわれています。このような無縁仏のために昭和9年地元と川崎市によって供養塔が建てられました。現在では地元の下並木町内会が日常の維持・管理を行っています。毎年5月の第4日曜日には町内会でご供養を行い、近隣の商店主や町会長、京急八丁畷駅長など50名ほどが参列して読経の後、町内会館において追会が開かれています。
京急本線とJR東日本の南武支線の交換駅である『八丁畷駅』のホーム脇にあるのが、こちらの遺跡で、明治中期以前ばこの辺りは一面田圃だらけで商家があるのは現在の市場町あたりにだけでしたが、古地図を確認すると前述した『八丁畷駅』周辺には並木が街道に沿うようにあったようで、震災や火事や飢饉、倒れた旅人などをその並木の元に埋めたようです。昔は本当に手入れもされず雑草が生え放題でしたが、現在は川崎市により維持管理されている事もありとても綺麗な状態となっております。
昔、東海道沿いであるこのあたり、川崎宿では震災や 大火・洪水・飢饉・疫病などの災害にたびたび 襲われ、多くの人々が命を落としています。おそらく、災害で亡くなった身元不明の人々を、 川崎宿のはずれの松並木の下にまとめて 埋葬したのでしょう。この場所は無縁塚と 呼ばれ、地元の方々により供養が続けられて います。不幸にして亡くなった人々の霊を供養する ため、地元の方々と川崎市は昭和九年、ここ に慰霊塔を建てました。
旧東海道沿いにある、江戸時代の人骨がたくさん見つかったという場所。現在は八丁畷駅の隣にあり、人骨が出たという雰囲気は感じられません。
八丁畷駅の名前の由来。
畷というのは、田んぼに囲まれた一本道とのことです。今では想像できませんが……
江戸時代の度重なる災害で亡くなった無縁の方々の人骨がこの辺りから大量に掘り出されることからつくられた供養碑です。
塚と説明板があり、説明板には下のように書かれてます。東海道は、川崎宿の京都側の出入り口(京口土居・現在の小川町付近から西へ八丁(約870メートル)にわたり、畷(なわて)といって街道が田畑の中をまっすぐに伸びており、市場村(現在の横浜市)との境界に至ります。この付近を八丁畷と呼ぶようになりました。こなたりでは、江戸時代から多くの人骨が発見され、戦後になっても道路工事などでたびたび掘り出され、その数は十数体にも及びました。これらの人骨は、鑑定により江戸時代ごろの特徴を備えていることが分かりました。江戸時代の記録によると、川崎宿は震災や大火・洪水・飢饉・疫病などの災害にたびたび襲われ、多くの人々が命を落としてます。おそらく、災害で亡くなった身元不明の人々を、川崎宿のはずれの松や欅(けやき)の並木の下にまとめて埋葬してのではないでしょうか。不幸にして亡くなった人々の霊を供養するため、地元の方々と川崎市は昭和九年、ここに慰霊塔を建てました。この場所は無縁塚と呼ばれ、地元の方々により供養が続けられています。
江戸時代、この付近は度々災害に遭いその為に亡くなった身元不明の人骨が、江戸時代から近年まで発掘されていて、ここは不幸にして亡くなった人々の霊を供養ということで、地元有志と川崎市が昭和9年慰霊塔を建てました。それ以来ここを無縁塚と呼ばれ地元の方々が供養なされているそうです。
名前 |
無縁塚 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.4 |
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商人や旅人が街道沿いに行き倒れると村外れにあたるこの辺りでまとめて弔われていたらしい。全国各地に無縁墓や仏があるけど、八丁畷駅のすぐ横にあるから意外だけどちょい昔の江戸時代がぽっかりと垣間見えるエアーポケットだ。目の前には旧東海道の石碑、近くに芭蕉の句を顕彰すると石碑があり、現代の人々は忙しく通り過ぎるけど、このまま先達の足音を辿って西に歩きたくなる場所。