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糸満市字山城のあるこの鍾乳洞は、地元ではマヤーアブと呼ばれています。すり鉢状の窪地にある洞口から中に入ると、上層部・中・下部の3層に分かれています。マヤーアプは入り口が小さいものの奥に広がる空間が大きく、奥行きは約30m、幅は最入17m、深さは最大20mほどとなっています。昭和20年(1945年)3月、米軍の攻撃が始まると、山城の住民のほとんどがこのマヤーアプにしました。5月下旬、米軍の進攻の激化に伴う日本軍の南部への移動で、消滅から喜屋武にかけても大勢の日本兵が移動してきました。その頃から、住民の行動は監視されるようになりました。また、日本の命令で、弾薬運びをさせられたこともあったようです。ある時、マヤーアプに日本兵がやってきて、「ここは軍が使うから民間人は出るように」と軍刀を突きつけてる命令しました。住民は畳で入り口をふさいで拒否していましたが、やがて畳は軍刀で切り裂かれ弾が飛び交う中、多くが通い出され、米軍の激しい攻撃の中を逃げ惑いました。その後、マヤーアプは米軍の攻撃を受けることになりました。マヤーアブの中からは、多くの遺骨が見つかっています。また、住民が使用していたと思われる茶碗の破片や水がめなどの日用品、さらには、日本軍の物と思われる軍靴や薬莢、アンプルなどの遺留品も多く見つかっています。現在は陥没や落石の危険性がありマヤーアブへの立ち入りは禁止していますが、内部には当時の面影が残っており、今なあ沖縄戦の悲惨さを物語る存在となっています。