佐久市の平賀神社で散歩を楽しもう!
平賀神社の特徴
平賀神社は八幡神社とも称される、趣深い神社です。
平賀荘園ゆかりの歴史ある神社で散歩が楽しめます。
過ごしやすい気候の中で、穏やかな時間を過ごせます。
平賀神社と稱してゐますが、八幡神社です。村社で小ぢんまりとはしてゐますが、清和源氏義光流平賀氏に縁のある、歴史が長く雰圍氣のある神社です。以下は案内板より。誤字脱字等が・・・------------------------------------------------------------平賀神社由緒鎭座地 佐久市大字平賀字駒在家四九七六番地御祭神 ・譽田別命 ・氣長足姫命 ・玉依比賣命平賀八幡宮の誕生平賀村は、平賀氏發祥の地として知られる舊村である。源氏の名家平賀氏は中世の豪族で佐久郡平賀郷を領した。甲斐源氏の新羅三郎義光の長男(※四男)盛義は、平賀郷を領して平賀冠者と稱し平賀城を築いた。その子第二代城主平賀武藏守義信が居城した建久年間、征夷大將軍源頼朝が淺間山麓へ狩りに來た折城主義信と對面して「源氏が隆盛になったのは祖先の頼義が石清水八幡宮を鎌倉に勸請して以來、その御加護によるものである。平賀氏も鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮を分遷して、平賀城の鎭護と平賀郷の鎭守の神として祭るがよい。」との頼朝の祈誓を請けて、建久四年九月十五日(鎌倉時代・一一九三)小波澤(尾羽澤)縫之丞重康を齋主として鎌倉より八幡宮を勸請して平賀八幡宮が創設されたと傳へられてゐる。その後、永和四年(南北朝時代・一三七八)に移築、文明十五年(室町時代・一四八三)等の再建・建替へ營繕を經てより舊に倍して莊嚴になっていったと記録されてゐる。平賀神社への繼承發展平賀八幡宮は稀に聞く社歴を誇って尊崇されてきたが、平賀源心(玄心・玄信・成頼)が海の口城に敗れた頃、社殿も兵火によって燒失されるなどでしばらく廢絶してゐたが、永禄元年(室町時代・一五五八)に再建され平賀郷の總鎭守の神として舊に倍して崇敬されてきた。元文四年(江戸時代・一七三九)二月六日平賀郷總社號を京都の吉田家より拜授(※拜受)し、嘉永元年(江戸時代・一八四八)三月神祇官より、平賀神社の社號の許可を受ける。明治六年四月(一八七三)村社に列せられ、明治四十年(一九〇七)四月神饌幣帛料を共進(※供進)される神社に指定れた(※された)。明治四十一年九月村内に分散してゐた十七神社が新たに合祀され、名實共に平賀村の總鎭守の社となり現在に至ってゐる。『八幡さん』といふ親しみを込めた尊稱には、かうした歴史をとほしてご先祖から傳へられてきた尊崇の心が込められてゐる。祭典・神事・歳旦祭 一月・春季例祭 四月二十日・秋季例祭 九月十八日(湯立神事)・大祓式 年二囘(六月・十二月)・祇園祭 三年に一囘(七月)百年前の平賀神社(圖の説明)鳥瞰圖は明治三十三年四月(一九〇〇)に描かれた銅版畫『平賀神社の景』今から百年前のたゝずまひである。長野縣信濃國南佐久郡平賀村大字平賀 鎭座村社 平賀神社之景祭神 譽田和氣尊 息長足姫尊 玉依比賣命當社ハ古老ノ口碑ニ據ルニ。建久四年九月。平賀武藏守鎌倉鶴岡八幡宮ヨリ。コゝニ勸請シタルモノナリト。元文四年二月六日。京都吉田家ヨリ總社號を附與シ。嘉永元年三月同家ヨリ神社號の許可ヲ受ケ明治六年四月村社ニ列ス。明治丗三年四月刻平成十四年十一月三日建之 平賀神社氏子中。
佐久市の平賀荘園ゆかりの古い神社です‼️
お世話になりました。
名前 |
平賀神社 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
0267-62-6568 |
住所 |
|
HP |
http://www.nagano-jinjacho.jp/shibu/03tousin/03minamisaku/1025.htm |
評価 |
4.1 |
周辺のオススメ

久しぶりに行きましたが、過ごしやすい気候のなか、散歩を楽しめました(^.^)