四季折々の花咲く放光寺。
放光寺の特徴
1184年に安田義定が建立した歴史あるお寺です。
四季折々の花が楽しめる、特に紫陽花が美しい場所です。
ご住職の丁寧な説明に心癒される素晴らしい体験ができます。
桜がキレイですよお〜遊具も少々あと重い大黒を持ち上げるとご利益ありますよお~駐車場周辺で写真を撮りましたあ。
直書きの御朱印いただきました。『甲斐国志』に拠れば、放光寺の前身は山岳仏教の盛んな平安時代に大菩薩山麓の一ノ瀬高橋に建立されていた天台宗寺院・高橋山多聞院法光寺であるという。平安後期には甲斐源氏の一族である安田義定(遠江守)が牧荘や八幡荘を本拠とし、寿永3年(1184年)に法光寺は義定の屋敷地に近い山梨郡藤木郷へと移転され、安田氏の菩提寺としたという。開山は賀賢上人。『吾妻鏡』に拠れば、義定は反逆の疑いで建久5年(1194年)8月19日に梟首されているが、『鎌倉大草紙』に拠れば義定は当寺で自害したとされる。『甲斐国志』によれば、放光寺が所蔵する義定位牌にも「法光大禅定門」と記載される。建久2年(1191年)に義定が寄進した梵鐘銘に拠ればこの頃には「法光寺」表記であり(『国志』)、「放光寺」表記の初見は戦国期の天文17年(1548年)の寺領証文において見られる。弘治元年(1555年)12月には、武田晴信(信玄)による藤木郷の棟別改めが行われ、この時に諸役免除の庇護を受けている。永禄11年(1568年)3月、武田氏が越後侵攻を行った際には放光寺のほか慈眼寺(笛吹市一宮町末木)、法善寺(南アルプス市加賀美)はじめ11か寺に戦勝祈願を行わせている。『甲斐国志』によれば、天正10年(1582年)3月の織田・徳川連合軍の武田領侵攻により武田氏は滅亡し、この時に放光寺本堂も焼失している。同年6月の甲斐・信濃を巡る天正壬午の乱を経て甲斐は三河国の徳川家康が領し、『甲斐国志』によれば放光寺は家康の庇護を受け、寺領として小曽郷を安堵されている。天正17年(1589年)には徳川家臣・伊奈忠次による検知が行われ(『放光寺文書』)、恵林寺郷にも寺領を与えられている。豊臣政権時代には、慶長3年(1598年)には浅野幸長から禁制を受けている。江戸時代初期の慶長8年(1603年)には御屋敷内への寺領寄進が行われており(『同前』)、寛文年間(1661年 – 1673年)には幕府作事奉行保田宗雪(若狭守)により本堂再建が行われ、寛文19年(1642年)に将軍徳川家光から朱印地として賜り安堵された。保田宗雪は中興開祖と位置づけられている。江戸期には甲斐国談林7か寺に数えられ、藤木村の龍光院のほか徳和村の吉祥寺(山梨市三富徳和)、下小和田村の福蔵院(甲州市塩山下小田原)、室伏村の円照寺(山梨市牧丘町室伏)などの7寺の門徒寺を抱えた。山内には12坊を擁していたが、文化年間(1804年 – 1818年)には廃絶している(『国志』)。『本末帳集成』に拠れば延宝年間(1673年 – 1681年)に山城国醍醐寺報恩院末となり、明治27年(1894年)に智山派に改めているとのことです。
あじさいを見に訪問。今は停止中のようですが、お抹茶飲みながら拝観のプランなどもあり。それはともかく、佇まいが素敵なお寺さんです。重文指定の仏像もあり見応えありました。仏像が好きな人ならもっと色々分かるんだろうな。ちなみに、お花はあじさい以外に菖蒲も綺麗でした。
二ヶ月おきに参拝してます。ここに来ると季節のお花を楽しめたり心落ち着く時間が過ごせます。歴史ある立派な仏像が安置されているお寺です。
丁度蓮の花が咲いていました。境内は色いろな木々が美しく手入れされ暑い日でしたが、そこだけは凛とした空気がありました。門のデザインが珍しく印象的です。
塩山駅から、駅から散歩で訪問。葡萄畑、桃畑を抜けて到着した。ここのお寺は、山門がすごい。駐車場から行くと山門を通らないでもお参り出来るが、山門は見逃せない。境内は、手入れがされていて美しい。ただ、この日は、観光バスのツアー客が押し寄せていたので、ゆっくり鑑賞出来なかった。
花の寺と云われる甲斐源氏の名刹。紫陽花と花菖蒲の時期が少し早かったです。今年の大河ドラマで鎌倉殿の13人が進行中で、甲斐源氏の新羅三郎義光の孫安田遠江守義定が1184年創立。安田一門の悲劇を産んで以来、武田の護持を受けて武田信玄の祈願所と定めて寺領を寄進した寺。重要文化財の、大日如来坐像、愛染明王坐像、不動明王立像、金剛力士立像があり、広い寺ではないが、静寂な良い所ですね。
仏像好きとしては収蔵庫の大日、天弓愛染、不動様を拝せことだけで満足です。毘沙門堂にある安田義光公の肖像とされる毘沙門天もすぐそばで拝することができます。花の寺らしく境内には様々な木や花があります。季節の花が咲く時期に訪れるとよい写真がとれるかと。御朱印は大日、天弓愛染、大黒天の三種類です。
ご住職が丁寧に説明してくださりとても良いお寺です。文化財は一見の価値ありです。特に、愛染明王座像は他ではあまり見ないです。鐘がつけますが、お参りの前につきましょう。
名前 |
放光寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0553-32-3340 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.1 |
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1184年に、平安時代の武将「安田義定」が、一ノ谷の戦いの戦勝を記念して建立した寺です。安田義定は京都や奥州平泉の平安文化を甲斐の国に招き寄せることを考え、八尺の阿弥陀三尊や大日如来、愛染明王、不動明王など多くの平安時代の仏像を並べています。かつて源頼朝が奈良の南京佛師成朝を鎌倉に招き、鎌倉大仏を作造ることを提言し成したように、義定もまた成朝を甲州に招いて甲州仏師原(現武士原)に一大工房を作り、これらの仏像を作り上げました。宗教的な観光名所としては鎌倉がとても有名ですが、時期を同じくしてこの山梨の塩山の地にこのような歴史のある神社仏閣があるのはあまり知られていません。山梨のこのエリアは古墳や縄文時代の土器などが多く出土するエリアであり、深い歴史を探訪する一つの立ち寄りどころであることは間違いなさそうです。This temple was built in 1184 by Yasuda Yoshisada, a military commander of the Heian period, to commemorate his victory in the Battle of Ichinotani.Yasuda Yoshisada thought of inviting the Heian culture of Kyoto and Oshu Hiraizumi to Kai no Kuni, and arranged many Heian-period Buddhist statues, including the eight-foot Amida sanzon, Dainichi Nyorai, Aizenmyoo, and Fudo Myoo.Just as Minamoto no Yoritomo once invited Nankyo Butsuri Seicho of Nara to Kamakura to create the Great Buddha of Kamakura, Yoshisada also invited Seicho to Koshu to build a large workshop in Koshu Butsurihara (now Bushihara) to create these Buddhist statues. Kamakura is very famous as a religious tourist attraction, but it is not well known that there are shrines and temples with such a long history in this Shioyama area of Yamanashi at the same time.This area of Yamanashi has many ancient burial mounds and earthenware from the Jomon period, and it is surely one of the best places to stop by and explore the deep history of this area.