スポンサードリンク
スポンサードリンク
名前 |
補陀山 新屋観音堂 |
---|---|
ジャンル |
/ |
住所 |
|
評価 |
3.0 |
普門堂とも言う。幕末期には小倉山潮音寺とも称された。文化十一(1814)年成立の『甲斐国志』巻之九十に一行「補陀山観音堂(同村)境内見捨地本尊正観音」とある。江戸時代以降の福地村(上吉田)もしくは新屋村の古地図には「カンヲン堂」などとして、大概描かれている。敷地は十坪程で決して広くはないが、前庭に石碑や石仏、馬頭観音像などが多数並んでいる、富士吉田市で屈指の石造物スポットである。市教育委員会作成の同市文化財地図に載るものだけを列挙しても、新屋普門堂前駒形六地蔵、新屋普門堂前(以下略)青面金剛庚申塔、観世音菩薩塔、奉納坂東三十三所、不動尊、馬頭観音、庚申供養塔、石祠型道祖神の八つがある。特に宝暦11(1761)年建立の青面金剛庚申塔は富士吉田市文化財審議会編・同市教育委員会昭和50年3月発行『路傍の石造物』でも絶賛されて、口絵写真を飾っている。疱瘡神ともされて、かつては赤く塗られていたのだという。また弘化四(1847)年建立の補陀山記という板碑には普門堂の由来が陰刻されており、大変に面白い。堀内友治著・昭和56年3月発行『ふるさと物語』を参考に解釈すると、あるとき、夜間光が差し込む怪奇現象が2週間続き、付近の住民が只事ではないと卜者にお伺いを立てたところ、当地を掘れと言われ、従ったところ菩薩像を掘り出したという。そこでお堂を作って像を安置し、月江寺の絶学禅師(1428年没)に黙眼供養して貰ったという。下って正徳年中(1711頃)に堂を改修し、月江寺の大幻性如先師にお願いして遷座式を行い、補陀山観音堂と名付けて貰い、月江寺の末寺に連ね、郡内観音霊場の第十二番として貰ったとの由。細かく見ていけばキリもないので、是非実地で見て頂きたい。但し、2月初午は例祭(念仏講)との事。駐車場はお堂の横に一台分である。