かっぱ神社で出会う広い境内。
大積天疫神社の特徴
甲宗八幡神社とのゆかりがある神社です。
別名かっぱ神社として親しまれています。
敷地が広く静かに訪れることができます。
別名かっぱ神社といわれています。ご祭神は、奇稲田比賣命、武速須佐之男命、鎮魂八古神、ハ古毘賣神、久奈止神です。創建は不詳ですが、社記によれば丸山城主大積上総介隆鎮護守也世が1646年に再造して、今の社地に遷座したと伝えられています。この神社は、義経と平家一門の戦いの壇ノ浦の戦いに由来する神社です。平家の主力の武将で義経の好敵手だった平教経と、その妻を祀ってあります。壇ノ浦の戦いで入水した教経の妻の遺体は大積の浜に流れ着きました。むらびとはそれを哀れんで浜に葬りました。これが海御前の墓です。時代が過ぎ、人々は平家一門の霊は、男は平家蟹となり、女は河童へ化身したといわれるようになりました。海御前の教経の妻はいつしか河童の総帥として祀られました。
この神社は小学生の頃、自転車で2時間以上掛けて来た事があります。この神社の木陰で休憩した時に河童の石像があったのが印象に残り、数十年ぶりに訪れました。旧社格は村社。祭神は奇稲田比賣命、武速須佐之男命、鎮魂八柱神、八衝比古命、八衝比賣命、久奈土神。創建は詳らかではありませんが、社伝では丸山城主、大積上總介隆鎮護守也。世に大積殿と称すとあるよいです。正保2年(1646年)、再造して今の社地に遷座すと伝えます。境内には水天宮や思い出の河童の像、尼御前のお墓等がありました。この神社が「河童神社」と言われる由縁です。久留米の水天宮本宮は尼御前(建礼門院)に使えていた女官が1190年に天之御中主初め安徳天皇、建礼門院を祀ったのが創始とされる事から、この水天宮はもしかすると同じ年代にまで遡るのかも知れませんね。どちらかと言うと天疫神社の方が創建が浅いかも知れません。社務所はなく無人のお社です。拝殿は入母屋平入り千鳥破風を持つ立派なものです。珍しく瓦葺になっています。本殿は一間社流造で屋根に5本の鰹木と外削ぎの千木を乗せています。お賽銭箱はなく扉も閉まっていました。水天宮の方は一間社流造、此方も瓦葺になっており拝殿等はありません。駐車場はありませんが境内前に止めて参拝する事は出来ます。小学生の頃の夏休みの日を懐かしく思い出しました。(海御前)に付いて尼御前伝説は色々ありますが、此方の「海(あま)ごぜ」は壇之浦の源平合戦で幼い安徳天皇の最期を見届け入水した平家の勇将、能登守教守(つねもり)の奥方を指します。海御前の遺体は大積の乙女山の浜辺に流れ着き、村人は懇ろに葬り墓を建てました。この墓は海御前の墓と呼ばれる様になりました。海御前はやがて河童の総帥となり河童族を支配する様になりました。この大積にも河童伝説が残り「河童の証文岩」というものがあります。大積の殿様の馬を乙女川(今の奥畑川)で洗っていると、河童が現れ馬を川に引き込もうとしました。これを家来に見付かり捕らえられた河童は、傍らの石を指差し「この岩が腐るまで領地内ではいたずらをしません」と誓い、殿様に許しを乞うたとの事です。この神社に限らず北部九州は河童伝説が沢山あります。
表から見た感じと違い、広い敷地の神社です。大通り側から入ると「かっぱ」がお出迎えしてくれます。本殿となる天疫神社の周囲に、水天宮などもあります。神事が多い行われているようで、案内の看板なども設置されていました。
かっぱ神社と言われると聞き訪れてみました。特に行事のあっている時でなかったためか、ひっそりとしていました。平家の伝説が残る神社の様でした。大きな道の傍にあるので、訪れやすい場所であると思いました。
| 名前 |
大積天疫神社 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
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甲宗八幡神社とゆかりがあるみたいです。カッパがいます❤️この後皇生霊神社にいき、カッパ繋がり✨