目立つ存在、他とは違う。
この道の本来の名称。現在の豊島園から長久保を繋ぐ道で、豊島園は、平安末期から室町中期にかけて勢力があった秩父流平氏の分家の一つ豊島氏の居城、練馬城だったところ。(豊島氏は石神井城の城主でもあった)つまり、その当時のメインストリートだったようだ。案内板には、旧新倉村と記されているが、ここは旧新座村だったところで、実は少々ややこしいのだが、平安時代に郡名が爾比久良郡(にいくらごおり)になったが、地元住民は、意味がないうえに書きにくかったからか、新倉、叉は新座の当て字を用い、郡も新座郡(にいくらごおり)と、字を改めたそうだけど、ややこしい事に、この当て字を村名にした村が3つあり、一応、呼び分ける為に、上新倉,下新倉,新倉としたが、平安から江戸中期にかけて、〈くら〉の字が定着せず、古文書によっては、上新倉を上新座と記してるものがあるそうだ。江戸中期に新座郡を、あらざぐんと読む者が現れ、郡の役所は『にいざぐん』と読むようお触れを出し、今の和光市の新倉、下新倉は旧郡名の(にいくら)から倉になり,もう一つの方は、郡に従って、新座村となったそうだけど、明治の大合併の時に、大泉に吸収されて消滅したそうだ。つまり、この場所は、旧新座村だった場所になるんです。 (長文で申し訳ない)
| 名前 |
長久保道の碑 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
2.5 |
| 住所 |
|
周辺のオススメ
よくわからんが目立つ。