富士山の石造り、歴史と絶景。
田子山富士塚の特徴
利用可能な登山日は大安・友引の日のみです。
敷島神社の境内に位置する立派な富士塚です。
富士塚の石は本物の富士山の石で作られています。
特定の日と友引、大安の日のみ入れます。入れる日は売店で御朱印と御札を頒布しています。
大きな富士塚です。志木駅からバスで10分ほど、徒歩数分です。大安と友引の日に登頂出来るそうです。
埼玉県の富士塚は都内と比較すると巨大化の傾向があるのですが、この富士塚の大きさは格別です。宝珠花の富士塚以上に大きいです。15時まで登れ、時間をすぎると柵が閉められます。
この富士塚は明治5(1872)年に引又宿(現在の志木市本町)に住む高須庄吉という人物が、もともと古墳と言われていた田子山の山頂で、富士信仰に関わる「逆修板碑」を発見したことがきっかけとして完成したとされている。「逆修」とは、自分が生きている内にあらかじめ自分のための法事を修め、冥福を祈ること。これを行うことにより、死後、初七日以降の法事が免除されるという。元からあった円墳を土台にして、つまり古墳を転用して造られており、美しいコニーデ型が特徴であり、1「山頂に祠」がある2「烏帽子磐」がある3「小御岳神社」がある4「黒ぼく」(富士山の溶岩)がある5「御胎内」(地下洞穴)がある6「霊峰富士を遥拝」できるという「6要件」と呼ばれる条件を全て満たしているのことから国の重要有形民俗文化財に指定されている。
敷島神社の境内にある富士塚。上まで登ると富士山が見える時もある模様。
この富士塚は、古墳といわれてきた「田子山塚」の上に盛り土をして築造されたものです。富士塚とは、富士山を模して築かれた人造の小山で、主に江戸時代から明治時代にかけて築造され、県内だけでも約百基の富士塚が現存し、市内では、この他に一基羽根倉の浅間神社にあります。田子山富士塚築造の発起人は、後に富士講の先達となった高須庄吉で、富士山を大変崇敬していました。庄吉は、この地を散策中に富士山に入定したといわれる十瀧房承海の暦応三年(一三三八)の逆修板碑を発見し、大いに感激して同志をつのって築造に着手しました。工事は、明治二年(一八六九)十月から五年六月にかけて行われました。塚は、高さ十二メートル、樹木や岩石の配置に工夫が施されており、富士山に模して登山道・人穴・胎内・烏帽子岩・釈迦割石や富士山から運んだ熔岩などが置かれ頂上の祠の中には木花咲耶姫命が祀られています。また塚のふもとには、浅間神社の祠があり承海の逆修板碑が祀られています。令和2年3月16日には「国指定の重要有形民俗文化財」に指定されています。
富士塚マニア(なんているのか)ならば、必ず訪れるべきもの。塚の高さの規模といい、志木から富士山に参拝する場合の実際のルートを模して富士吉田側から登るという設定の面白さといい、「登山道」の整備状況といい、途中に配された石碑や石像の数と質といい、ほかでは見られない。ところどころ、油断すると崖下に転落しそうなポイントもあるので、ふざけていると後悔しますよ。途中にある石碑を囲む玉垣に、中村仲蔵と尾上菊五郎(名優の「六代目」だろう)の名が奉納者として彫り込まれているのも、この地区、この富士塚が名高いものだった(そして当地にパトロンがいた)ことを物語る。とはいえ、いつでも登れるわけではなく、WEB上に公開されているカレンダーで、あらかじめ確認しておくことを強くお勧めする。
敷島神社の大鳥居をくぐると、正面にでんと鎮座する塚が目に飛び込んでくる。躑躅が所々色を添えている。主神は木花咲耶姫命等三柱。安産の神様。裏側に穴があり胎内洞で、夫はこの穴に入って安産の祈願したという。人ひとりやっと入れる狭さである。妻の陣痛と生まれ出る苦しみを享受していたのかもしれない。元来、円墳だったところに築造された。高さは12mある。登ることができるが、この日は閉山でした。令和2年3月、国の重要有形民俗文化財登録。よく手入れされてます。
近所のジイさん連中がしっかり手入れをしています。
| 名前 |
田子山富士塚 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
048-471-0049 |
| 営業時間 |
[月火水木金土日] 10:00~15:00 |
| HP | |
| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
|
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とても立派な富士塚です。入山日は決まっているようで、この日は登れませんでした。