白鹿ヶ城の歴史散策。
佐沼城跡(佐沼要害跡)の特徴
佐沼城跡は、春に桜が美しい名所として知られています。
登米市歴史博物館と組み合わせて訪れると、さらなる歴史の謎を楽しめます。
神社や郷土資料館が近く、散歩にも最適な城跡の雰囲気を味わえます。
某PCゲームデフォ城を巡る旅 221026寺池館からそれ程離れて無いぞ 連携してたのか現在は公園に整備されてるが 訪れる人は少なさそう一段高くなってる位で遺構は???
お堀があります、城跡には公園がありますが草がぼーぼーでした、せっかくの歴史跡なのでもう少し整理されててもいいのかなと思いました。
2022年8月12日に見学しました。ここに城を築いたのは、藤原秀衡の家臣であった照井太郎高直だと言われています。文治元年1185年の築城の際、城の鎮護のために大きな鹿を生き埋めにしたと伝えられ、一名「鹿ケ城」と呼ばれました。源頼朝により、奥州藤原氏が滅ぼされ、城主は、葛西氏、大崎氏と入れ替わりました。豊臣秀吉の小田原参陣命令を大崎氏、葛西氏共に従わなかったため、領地没収となります。そこに知行を得たのは、木村吉清・清久父子でした。元々、木村家は、小身だったため、領内統治が進まず、葛西・大崎一揆を招きます。この一揆を収拾するように命を下されたのは、伊達政宗でした。佐沼城に逃げ込み、籠城していた木村父子を救い出しましたが、伊達政宗は、陰で一揆を扇動したのではないかと疑われてしまいます。この一揆が切っ掛けとなり、伊達政宗は、米沢から減封されて岩出山に本拠地を移されました。佐沼城を任されたのは、政宗家臣の湯目民部景康です。佐沼城主となった湯目民部景康は、津田に姓を改めました。慶長20年に一国一城令が出され、佐沼城は、佐沼要害となります。宝暦6年1756年に亘理倫篤が5千石で入ります。幕末まで亘理氏が治め、明治4年に廃藩置県となり、廃城となりました。迫川と荒川の合流地点に位置し、内堀や土塁も各所に残されています。
徳川家康様の物語で必ず出て来る白鹿ヶ城、本家筋の新田氏もいたため唯一、本妻と宿泊されたお城です。鎌倉幕府を作った頼朝公の蝦貫征伐の本拠地でもあり又菅原道真公の奥様を一時かくまっていた城です。
やや説明不足。もう良いのでは少し、整備されても良いかな、と思いました。
駐車場の隣に歴史博物館と大きめの公衆トイレがあります。山城ですが、階段を上るとすぐに公園に出ます。
小さな城だったのかな。上から写真で見ると川に面して天然要害。江戸時代は政宗の子が嗣いだ亘理氏の要害。
神社と郷土資料館が無料。
散歩するのには良いね。春は、桜、最高です。近くに、資料館もあります。
| 名前 |
佐沼城跡(佐沼要害跡) |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0220-21-5411 |
| 評価 |
3.4 |
| 住所 |
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滑り台やシーソーなど遊具が淋しく置いてありました。眺めは良いです。