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名前 |
佐藤範雄先生頌徳之碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
地域では頌徳碑(しょうとくひ)と呼びます。金光教教祖直信、佐藤範雄先生を称える記念碑です。明治中期、元々地域の信仰から始まった金光教は、国家神道施策の中では非公認宗派でしたので、特に関西などで警察や憲兵の取り締まりを受けました。同時期に黒住、扶桑、出雲大社などが一教独立の認可を受けており、佐藤範雄先生は金光の教えの道も一教派として国に認可を受けましょうと進言。「人が助かりさえすればそれで結構である」と教祖の神意を受け、一教独立へ奔走されます。そして神道の一派閥として認可、次いで神道本局(今の神社本庁)からの独立を果たし、現在の金光教の基いとなります。その後も学校の設立・始まって間もなかった赤十字運動の普及・遊郭改善講話・過激思想の緩和運動(明治大正期はテロリズムが国内で流行った)など。多く社会事業に取り組まれ、時には天皇や国からも褒章を受けました。その範雄先生76歳の時、先生を慕う者たちがその栄誉を称え、立派なことを後世に伝えようと建てた記念石碑が、この頌徳碑です。字を書いたのは一戸(いちのへ)先生という陸軍で長く指揮を取られ、その後学習院の校長、明治神宮の宮司と歴任された、明治大正期のえらい人です。石塔正面には「佐藤範雄先生頌徳之碑」、向かって左側面に「明治神宮宮司陸軍大将従二位勲一等功二級一戸兵衛書」裏面に「昭和六年辛未三月佐藤範雄先生頌徳会建之」と刻んであります。手前にある小さい石のプレートは昭和46年、先生の教え子たちが当時を偲んで、序幕式の日に範雄先生が挨拶で読まれた歌を歌碑にしたものです。達筆で現代の私たちには読みづらいですが、「七十六歳範雄 あふきミる 神のみいつの 美かけいし 吾魂常盤に こゝにとゝめむ」(仰ぎ見る 神の御稜威(みいづ)の 御影石(みかげいし) 吾魂(わがたま)常盤(ときわ)に ここに留めん)、と刻んであります。除幕式の日、当時の新聞記事には、序幕のあと今の本部祭場の位置にあった金光中学校で式典があり、金光町中から1500人が集まり、餅蒔きや舞台出し物、範雄先生の地元から来た人たちによる郷土芸能「跳ね踊り」、玉島の女の子たちによる「良寛踊り」など披露されたと言います。その中で先生の挨拶があり、スピーチ文の中で和歌が三首あげられます。残りの二首を紹介しますと、「たてられし石にまことのこもるかなこもるまことを代々に伝へん」「おほけなく身には余れどよせられしあつき心に老を忘れて」という歌です。今は頌徳碑の背後は林になっていますが、記事の写真では背後は青空なので、きっと当時は畑とかだったのでしょう。