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名前 |
筒野1号墳(一志君塚) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
5.0 |
遺跡名:筒野1号墳(別名は一志の君塚)現在地:三重県松阪市嬉野一志町古代地名:伊勢国壱志郡小川郷?現状:山林の中に古墳がある。古墳への道は整備されておらず、山の入口には野生動物用の大きい檻が設置してあり、狩猟目的の可能性もあるので危険です。古墳見学はくれぐれも自己責任でお願いします。また陸上自衛隊の”屋外”射撃訓練場が離れた場所にあり、射撃している音がかなり聞こえてくるので、大丈夫だとは分かっていても慣れていないので緊張しました。現地までの農道は狭くなっており車も通りにくいです。車で間違えて北側の道路に入ると行き止まりでUターンが出来ないので注意して下さい。付近に駐車場はありません。墳形:前方後方墳規模:全長約45m(嬉野町史)。全長39.5m、後方部幅27m、前方部長さ13m(三重県史)「嬉野町史」は全長約45mとしているが、何故か規模の詳細を記述していない。築造時期:4世紀初頭~4世紀前半(嬉野町史)。4世紀中葉(三重県史) ※嬉野町史は10期編年外表施設:葺石がされていた埋葬施設:後方部に舟形粘土槨出土遺物:三角縁神獣鏡2面(獣文帯三神三獣鏡・波文帯三神三獣鏡)、位至三公鏡(双頭竜文鏡)、変形四神二獣鏡、碧玉製石釧、碧玉製筒形製品、水晶製玉類。※「三重県史」と「案内・解説看板」は主体部から離れた場所に三角縁神獣鏡が出土。「嬉野町史」は新たに発見された「郷土資志」の記述により、主体部から離れた場所に変形四神二獣鏡が出土としている?。※前提として「後藤守一氏報文」は発掘からしばらく年月が経った後の調査であり、発掘当事者の証言の正確性には問題もある。他の古墳についても色々とややこしい話が増えていて、相反する資料から相互に引用されると何が正しいのか分からない。混乱して情報を把握するのが非常に難しい。特に向山古墳の“埴輪”については「松阪市史」→「嬉野町史」→「三重県史・考古2」の時系列順に参照しなければ全体像が理解出来なかった。「嬉野町史」は円墳埴輪列を向山古墳のデジタル図で再現している。これに関連して新たに発見された「郷土資志」は学術的な資料の体裁ではないが、正確性は高いと思われるので、記述されている古墳については再考して統一的な見解を示す必要があると感じる。備考:筒野古墳群の中で最大規模の1号墳である。前方部を東に向けている。葺石らしき石が地面に点在している。古墳の全体に木々があって墳丘が分かりにくい。後方部の墳丘は丘陵頂上にあり、地山との違いが明確ではない。前方部は短く高さが低いこともあり、稜線と繋がっていて地面との違いがほぼ分からない。後で写真を見返したら自分でも何を撮影していたのかよく分からなかった。地元ではこの古墳は「一志の君塚」とも呼ばれており、南の集落には7世紀後半とされる古代寺院「一志廃寺」が見つかっている。この寺院は壱志君(一志君)の氏寺だと言われています。また釜生田辻垣内瓦窯(かもだつじがいとがよう)から出土した巨大な鴟尾はこの「一志廃寺」に供給される鴟尾だったとされています。集落の高台には壱志氏の氏神だった「龍天明神(中世の阿射加神社の祭神)」の跡地もあります。周辺一帯が古代一志郡の中枢部であったことを現在に伝えています。「遺跡 筒野古墳群は、一志の集落の北側にあたる丘陵上に位置する。標高約40mを最高所とする丘陵頂部を中心にして、直径約12m前後の古墳が10基築造されている。特に1号墳は全長約45mの前方後方墳であり、南側の沖積地とは約26mの高低差がある。」【参考文献・嬉野町史】「墳丘 1号墳は、丘陵先端の頂部に築造され、墳長約45m、後方部後面には稜線に直交する一条の溝が巡る。前方部は右側面が若干短い変形となる。周辺に小型古墳を伴い、外表施設には葺石がある。大正3年7月に発掘。主体部は墳丘主軸に直交する舟形の粘土槨(4.8×1.4m)とされ、北頭位をとるものとみられる。主体部からは三角縁神獣鏡2面と位至三公鏡(いしさんこうきょう)、碧玉製石釧(へきぎょくせいいしくしろ)、水晶製玉類(切子玉・管玉)が、また主体部より東に離れて変形四神二獣鏡が単独出土という。」【参考文献・嬉野町史】「筒野古墳出土遺物 鏡は、三角縁神獣鏡2面(1・2)と位至三公鏡(3)、変形四神二獣鏡(4)がある。(1)は破片が接合された鏡で、面径22.3㎝、紐径3.3㎝、縁厚0.9㎝ある。内区外周に獣文帯があり、そこに置かれた4個の方格内に、それぞれ「天王日月」の銘がある。全体に緑青が付着し、鏡背には赤色顔料も付着する。赤塚古墳(大分県)や岡山古墳(滋賀県)出土鏡などと同笵。(2)は完形の鏡で、面径21.7㎝、紐径3.3㎝、縁厚1.0㎝ある。内区外周に複波文帯と櫛歯文帯があり、全体に緑青が付着し、表裏に赤色顔料、鏡面に布痕が付着する。長塚古墳(岐阜県)出土鏡と同笵。(3)は3分の1を欠く鏡で、面径10.5㎝、紐径1.7㎝、縁厚0.2㎝である。紐をはさんで「□至三□」の銘がある。全体に緑青が付着し、表裏に布痕や赤色顔料が付着する。(4)はほぼ完形の鏡で、面径11.1㎝、紐径1.9㎝、縁厚0.3㎝である。全体に緑青が付着し、表裏に布痕や赤色顔料が付着する。石釧は碧玉製で、外径7.9㎝、内径6.0㎝、高さ1.3㎝で、斜面および側面に凹凸の細線が刻まれる。環体はわずかに内傾し、頂部および底部の面取りはない。他に石釧1点が伴出する。玉類はいずれも水晶製で、切子玉6点は長さ1.6~2.0㎝、径1.4㎝、また管玉2点は長さ1.8㎝、径0.9㎝で、ともに片面穿孔(かためんせんこう)である。筒形製品は、総体に丁寧な研磨が施された高さ51㎜、幅34㎜の碧玉製で、シャープな稜線を持ち、2段階に裾が広がる特異な形をしたものである。」【参考文献・嬉野町史】「補足資料 周辺地域では、他に向山古墳から筒形石製品2点が出土している。ともに緑色擬灰岩(りょくしょくぎょうかいがん)製であり、併せて出土した多数の腕飾類すべてが緑色擬灰岩製となる。これに対して筒野1号墳では、碧玉製石釧が知られ、筒形製品も同じく碧玉製である。ともに前方後方墳である筒野1号墳と向山古墳では、石製腕飾類等の副葬品がみられるが、筒野1号墳が碧玉製、向山古墳が緑色擬灰岩製という明確な石材の使い分けが認められる点は、両古墳の変遷を考える上で特に注目される。」【参考文献・嬉野町史】「中村川左岸の標高40m前後の低い丘陵地に位置する、前方後方墳です。墳丘規模は墳長39.5m、後方辺26.8m、高さ3.5m、前方辺10m(頂辺は誤記か?)、長さ13m、高さ1mを測ります。大正3年(1914)に発掘調査がされ、後方部中央で主軸に直行する粘土槨が1基確認されました。粘土槨からは三角縁神獣鏡1面、変形神獣鏡、位至三公鏡、石釧、水晶製菅玉、水晶製切子玉などの副葬品が発見されています。また、後方部粘土槨の前方部よりのところから木板にのせた状態の三角縁神獣鏡が1面発見されていますが、粘土槨との関係については不明です。古墳の外表施設は葺石が確認されているほか、後方部西側に周溝が確認されています。表面採集の限りでは、円筒埴輪や壺型土器などは確認されず、出土の石釧などから、ほぼ4世紀前半段階の古墳であると推定されています。」【案内・解説看板より引用】・一志郡嬉野地域にある5基の前方後方墳は、約5㎞四方の範囲に集中しているのが極めて特徴的である。このように前方後方墳が密集している地域は、岡山県北部の美作(みまさか)地方の勝央町が知られている。なお伊勢地方に前方後方墳が造られた背景はヤマト王権ではなく東海地方との関係があるとされる。大型の前方後円墳が多い伊賀地方とは対象的である。・一志郡内の前方後方墳は庵ノ門古墳・西山古墳→筒野古墳→錆山古墳→向山古墳の順に築造されたと推定されている(築造順は諸説あり)。いずれの前方後方墳も被葬者や築造勢力は、古代一志郡を支配した豪族の壱志氏が有力であり、継続的に造られた前方後方墳は累代の首長墓と考えられている。壱志君は「古事記」によると、孝昭天皇(こうしょうてんのう)の皇子で天押帯日子命(あめおしたらしひこのみこと)を祖とする皇別氏族とされるが、一般的には和珥(わに)氏の支族とされることが多い。和珥氏は「古事記」では春日臣、「日本書紀」では和珥臣とあるが、どちらも同じ和珥氏である。記紀とは時系列が違うが、和珥氏が後に春日氏を名乗ったので、和珥(春日)氏が正しい。一志郡の南には、壱志君と同族の飯高君が支配する飯高郡があり、伊勢地方で最大の前方後円墳である「宝塚古墳」が存在している。古墳時代の伊勢地方では壱志・飯高の両氏が繁栄していたことが分かる。