江戸時代の狂歌師鯛屋貞柳墓所へようこそ!
山門の右にある説明板には、墓所への道が言葉で説明されている。しかし、地図で書いていないし、読んだ言葉を正確に覚えるのも結構難しい。私は迷って、階段を上がり切ってしまった。寺の建物の裏には広い墓地がある。この中の一か所が貞柳の墓所だ。ナギの木の説明板の少し奥に、山門の横の説明板が示したイチョウの大木がある。階段を上がらずに、石垣に沿って左側に目指す「鯛屋貞柳」の墓所があった。動画で撮ってのせておいたので参考にして欲しい。「鯛屋貞柳」(たいや・ていりゅう、1654年(承応3年) - 1734年9月12日(享保19年8月15日)は、南御堂の菓子商・鯛屋の長男として生まれている。大坂に住んだ三代続いた川柳作家であった。しかし、本人は狂歌に転じてその歌風が時流に合って、浪花狂歌の大流行を招いた、張本人であった。多くの優れた弟子を輩出し、門下生は三千人とも言われた。永田貞柳と言われることもある。狂歌は、大和言葉ではなく、俗語で歌われる。という意味で、現代短歌にも影を及ぼしていると言える。𠮷岡生夫【(よしおか いくお、1951年4月8日~(現在73歳)は、歌人】が、2016.2.12に書かれた「用語論~鯛屋貞柳を狂歌師とは言わない~」から、『四、鯛屋貞柳』をそのまま引用しておく。『続家づと』(『狂歌大観 本篇』)の巻末に「狂歌式」がある。部分のみ引用しちゃう。・・・・・・いにしへの狂歌は名高き歌人詩人も時の興によみたまひしなり。この「歌人」は柿の本の歌人、これを和歌人として、一方に栗の本の歌人すなわち狂歌人を置きたくなるが、「和歌人」の用語は辞書検索しても出てこない。言文二途の時代、古代語による和歌と近代語に道を拓いた狂歌の並立を考えれば、用語としても二通りを準備した方が説明しやすいと思われるが、はたして「歌人」と対にした呼称があったのか、なかったのか、結論からすれば、ない。根は同じ歌人だったからである。印象に残るのは落首に対する厳しい姿勢を貫いていることだ。一 落首の狂歌かたくいましめ有事はいにしへよりの事にて中比松永貞徳別していましめられ誹諧の門弟にも此事かたく制せられ誓(セイ)紙をもかかせられしとかや。一 太平記其外軍書に多く落首めきたる狂歌有けれども、あるひはいさめの言もあり、又は時の一興を催し陣(ヂン)中の笑ひ草に詠じてたけき武士の心をも慰(ナクサ)むる一助とも相見へ 侍る。今の世の落首といふはむたいに人をそしり人のかいに成のみ、尤もつつしむべき事ならし二つ目の後半部分は「無体に人を誹り、人の害になるのみ」だろう。落ちれば底のないこと、そして限りなく文芸から離れていくことも知っていたのである。・・・・・・この大狂歌作家の、門前にある境内に墓があることを示した、石柱は立派であるし、壁にある説明板も立派。しかし、この日、墓所を発見できないので、後日もう一度訪れることになる。チャンスがあると考えて、落ち込むなんてばからしいよね。狂歌って、元歌・俳句のパロディーであったり、そんなものはないけれど、平凡で無意識的に起こってしまう『常識的な発想』を鼻先で笑っていたりする。
名前 |
鯛屋貞柳墓所 |
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ジャンル |
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電話番号 |
06-6771-4573 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.5 |
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光傅寺境内に江戸時代に活躍した浪花の狂歌師「鯛屋貞柳」の墓所がありますが、少し見つけにくかったです。転法輪のある本堂を右に進んで突き当りを左に折れてまっすぐ裏山に上ると銀杏の大木の左側にあります。2024年10月01日。