平城天皇の揚梅陵、壮大な古墳探訪。
市庭古墳(平城天皇 楊梅陵)の特徴
奈良県有数の大古墳、全長253mの前方後円墳です。
平城天皇の陵として伝わる楊梅陵がある史跡です。
佐紀盾列古墳群に属し、歴史的背景も豊かな場所です。
古墳の年代が合わないので、平城天皇では無いのが濃厚です。平安期前に作られた古墳なので、年代が合いません。
平城天皇(へいぜいてんのう)楊梅陵(やまもものみささぎ)市庭古墳(いちにわこふん)墳丘長253m(全国14位)の前方後円墳、築造時期は5世紀前半と推定。佐紀盾列古墳群を構成する古墳のひとつ。平城京の北側に位置する。宮内庁により第51代平城天皇の陵に治定されている。実際の埋葬者は不明。なお、前方部は平城宮建設の際に破壊され消滅している。
平城天皇は、天皇に執着がなかったのか、あっさりと皇位を弟である嵯峨天皇に譲り平城京に移り隠居生活に入ったが、寵愛を受けた藤原薬子にそそのかされ再び皇位に就こうとした(藤原薬子の乱)。が、あっさりと嵯峨天皇側に鎮圧され、薬子は自害、平城上皇は剃髪し平城京で崩御された、とされる。現在、平城天皇陵に治定されているのは、市庭古墳と言う古墳時代の、大型の前方後円墳で前方部が、平城京造営の際に削りとられて消滅し、後円部だけが残ったものと発掘調査で明らかとなっています。よって、平城天皇の御陵で無いと思われます。市庭古墳の被葬者は、狭紀盾列古墳群には、応神、仁徳天皇の関係者が多く葬られているのでその関係者でしょうか?平城天皇は、平安京で即位した天皇なので、改めて京都に御陵が造営されたか、平城京で崩御したので、そのまま奈良付近に御陵が造営されたかは分かりませんけど平城天皇の御陵は、永遠に不明のままと言う事なんでしょう。
平安京を造営した桓武天皇の皇子である第51代平城天皇の陵として伝わる揚梅陵(やまもものみささぎ)。正式名称は市庭古墳といい、佐紀盾順列古墳群を構成する古墳のひとつです。従来は円墳だと思われていましたが、平城京造営にあたり方墳部分を削平されたことが発掘調査で明らかになっています。宮内庁により平城天皇陵として治定されていますが、実際の埋葬者は誰なんでしょうか?住宅地の中にあり、一見した感じでは雑木林という小山です。
元は前方後円墳で前方部が平城宮建築の際に開削され、現在の形に至ったという古墳で、元のサイズだと奈良県有数の大古墳だった。被葬者の平城天皇は平安前期の人物であることから、造営された時代とかなりの時代のギャップが有ることから、この陵墓に埋葬された事が真実なら元あった古墳に追葬されたことになる。薬子の変に連座して失脚したことへの見せしめに、開削された陵墓に埋葬したのか、平安宮中の虚虚実実を連想させる古墳の一つ。
名前 |
市庭古墳(平城天皇 楊梅陵) |
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ジャンル |
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電話番号 |
0742-27-9866 |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.7 |
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日本最大級の佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群に属する全長253mの前方後円墳。奈良市佐紀町の平城宮跡北部に位置していますが、前方部は奈良時代の平城宮造営時に削られて消滅している為、現在は全長100mほどの円墳のようになっているとのこと。住宅地の中にひっそり佇んでおり、すぐ近くには野鳥が訪れる水上池もあり、非常に長閑な雰囲気が漂っています。大和西大寺駅から徒歩圏内です。近隣には佐紀盾列古墳群に属する全長200m超えの巨大古墳6基、平城宮跡があり、頑張れば徒歩圏内ですので、合わせて見学されることをお勧めしたいです。2023年11月2日に来訪しました。