京田辺の歴史、咋岡神社で参拝を。
咋岡神社(草内)の特徴
咋岡神社は1485年の山城国一揆の舞台跡に建つ神社です。
延喜式内社であり、本殿は春日造りの美しい造形です。
神社の北側に小学校があり、参拝時の配慮が必要です。
咋岡神社、京都府京田辺市草内宮ノ後。主祭神=倉稲魂神、明治26年~現神社名に改称。江戸時代=天神社~菅原道真。建治年間(1275~1278)に創建、天文3年(1534)に再建。木津川沿い、広い田が広がる土地。時折に村があり、社叢へ鎮座する。社殿は西向き。参道を進み、神域に出合う。石鳥居、赤い両部鳥居、割拝殿、拝殿、本殿の構成。石鳥居は北向きに建つ。現地は、学校のそばで、忠魂碑や遥拝所など、参道に整然と並んでいる。割拝殿は、瓦葺き、切妻造、五間、平入。左手は扉が付いて、部屋になっている。拝殿は、玉垣が囲み、銅板葺、入母屋造、三間、妻入で、向拝を伸ばす。横幅は1.5間。意匠は質素だが、組物も見える。本殿へつなぎ、石段が伸びるので、内部は幣殿のように見える。本殿は、囲いが設けられ、檜皮葺、春日造で、切妻造、向拝を伸ばし、軒唐破風を付け、妻入。正面階段、階隠屋根の構成。朱の彩色が目立つ。意匠は質素だが、組物、脇障子などを付ける。境内社=若宮八幡宮、住吉神社、春日神社、天照皇大神宮、八幡神社、祈雨神社、稲荷神社。
延喜式内社、本殿は春日造りです。境内の鎮守の森は、山城国一揆の舞台となった草路城跡で、土塁や堀も残っています。
神社の北側にある小学校の方から境内に入ります。ナビが境内の東側に案内するかもしれませんが、駐車場もありませんし民家の庭に入って行ってしまう恐れがあるので注意してください。周囲は道が狭いので、南に700mほど行った普賢寺川沿いの道に路駐して田んぼ道を北に向かて歩きました。式内社とされていますが、当社の創建は鎌倉時代で、飯岡地区にある同名の「咋岡神社」の方が当てはまる感じです。ただ、水害の多い地区なので、神社が移動したりそれに伴って祭神が移動したりしたかもしれません。江戸時代、当社は「天神社」と呼ばれていて、境内には天満宮の石灯籠や狛犬ならぬ狛牛がいくつかあります。拝殿に飾られた戦没者の若者の写真が印象に残りました。
咋岡(くいおか)神社と読むんですね。最初なんと読むのかわかりませんでした💦小学校の横に静かに佇む趣きのある神社⛩です。11月の終わりから12月に鳥居の横の黄色紅葉が色付いて綺麗です。
神社入口横に小学校があるため参拝には配慮が必要です。
名前 |
咋岡神社(草内) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.1 |
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咋岡神社は、1485年に勃発した山城国一揆の舞台となった草路城の跡地に作られた神社です。そのため神社の周りには幅の狭い堀が今でも残っています。そのせいか、この咋岡神社の内外には戦争に関するものが残っています。神社自体が室町時代の合戦の舞台ですし、参道には原爆の平和塔、拝殿には第二次大戦の戦没兵士の遺影。もう一つ南側に同名の咋岡神社はありますけど、こちら草内の咋岡神社は祖霊色が強いせいか全く雰囲気が異なっていますね。参道から居住まいを正したくなる、そんな雰囲気です。さて、咋岡神社の「咋」の字は常用漢字ではなく、現代日本ではほとんど使いませんね。ただ中国では現代でも普通に「問いかけ」で使う漢字のようですから渡来人系の言葉でしょうか。木津川を遡上した古代渡来人がこの辺りで「咋?(za?)」と問いかけたものがあって、(多分飯岡山、珍しい地形ですから)毎度毎度地元民に聞いたのが地名になったのかもしれません。いずれにせよ、古い由来のある地名を冠する神社です。