清水寺で阿弖流為と母禮を知る。
阿弖流為 母禮之碑の特徴
阿弖流為と母禮の名が刻まれた歴史的な石碑です。
坂上田村麻呂の征夷大将軍としての足跡を感じられます。
清水寺境内に位置する、深い考察を促す場所です。
アテルイの碑がわざわざ京都に建ってる意味を改めて書かれなかった歴史とともの考えるきっかけになります。
■アテルイ・モレの碑 #20201213蝦夷(えみし)の首長阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)の名が刻まれた石碑。801年(延暦20年)に行われた征夷大将軍坂上田村麻呂の蝦夷討伐で、勇敢に戦ったアテルイとモレ。翌年に田村麻呂が陸奥国に胆沢城を築くと、郷土の犠牲に心を痛め田村麻呂の軍門に下った。田村麻呂は二人を連れ京へ戻り、朝廷に二人の助命を願ったが公卿衆が反対、二人は河内国で処刑されたと云う。当碑は、平安建都1200年を期し、1994年(平成6年)に、二人の郷土になろう岩手県などの有志により建立された。「北天の雄 阿弖流爲 母禮之碑」と刻まれている。東北地形図も表に大きく影彫がされている。■田村麻呂は延暦17年(798年)に延鎮(賢心)と協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り祀った。清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。延暦24年(805年)に田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年(810年)に嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となる。田村麻呂は弘仁2年(811年)54歳で病死する。●当碑の建立の実現には碑文では寺の厚意によりとある。がそれ以上にもし田村麻呂がもう少し長生きしていたら自ら進んで二人を慰霊したのではと思う。已む無く罪人として処刑された為、表立っての弔いが出来無かったか、時を待って名誉回復もと考えたが果たされず処刑から10年で自らは病に倒れる。あらためて後世に忘れらずに碑された事にお喜びとも思う。そう本願の思いを察した上での建立であったとみる。
清水寺の創建者と言われる坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷討伐に向かう、田村麻呂は敵方の大将である阿弖流為と母礼を捕えた。はるばる京まで連れられた二人は田村麻呂の助命空しく処刑されてしまう。歴史のさだめとはいえ遠国の地で亡くなった二人に対して、田村麻呂ゆかりの地であるこの場所に顕彰碑が建てられたものである。
坂上田村麻呂を創建者とする清水寺境内に、田村麻呂と戦い破れ、遠国で処刑された阿弖流為と母禮の顕彰・供養の碑が建つ。東北地方には田村麻呂に所縁がある神社は無数にあるようだが、それだけ愛されているといえるのでは?平安遷都1200年記念で建てられたこの碑は、1200年遅れて、やっと都人が敵将を愛せたということか?
清水寺の中にあります。坂上田村麻呂の助命嘆願むなしく処刑された両名です。東北人としては感慨深い石碑でした。
清水寺を創建したという坂上田村麻呂公。征夷大将軍として蝦夷討伐に向かい、岩手の地で首領の阿弖流為と同胞の母礼を捕らえ、京へと向かいました。田村麻呂公は、阿弖流為の武勇、人物を惜しみ、朝廷に助命の嘆願をしたとのことですが、阿弖流為と母礼は処刑されてしまいました。平安遷都1200を期して、この史実に基づき顕彰碑が建立されたとのことです。
名前 |
阿弖流為 母禮之碑 |
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ジャンル |
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電話番号 |
075-551-1234 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.0 |
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征夷とはなんだろう。アテルイ、モレの書かれている面には、今で言う東北地方の地図。ここは蝦夷の国だった。日本列島をこうして侵掠すること。