代官坂の由来はここに!
旧石川代官所長屋門の特徴
代官坂の由来を知ることができる長屋門です。
石川家の歴史を感じる貴重な史跡です。
改修された構造が魅力の一つとなっています。
旧久良岐郡横浜村の石川徳右衛門宅。幕末に、黒船を率いてきたペリー提督を接待した事で、時の将軍からお褒めの言葉を頂いたそう。その時くらいから、箕輪坂から代官坂と呼ばれるようになった。みたい。近所の「石川町」も、この石川家から採られた。
何故代官坂か書いてある。
改修されているようで、門部分が取り除かれて両側の建物部分が残されています。なお、石川家には幕末ペリー一行も訪れているそうです。
代官坂の由来がわかった。代官坂トンネルもある。
石川家の長屋門です。
石川町・代官坂の名の起こり。
元町商店街から山手に抜ける坂の途中にあります。代官坂の名は坂の途中にある横浜村の元名主石川家に 由来しています。横浜村周辺は、開港期に神奈川奉行所 預かりとなり石川家は代官ではなかったのですが、ペリーが横浜村名主を町長と考えて表敬訪問したため呼ばれるようになったなどの幾つかの言い伝えがあります。それで、明治20年代から、石川家が代官屋敷、旧箕輪坂が代官坂と呼ばれるようになりました。主屋は建替えられていますが、手前の建物は昔のままのようです。
横浜村の名主石川徳右衛門サンの旧邸宅地で、徳右衛門サンの邸宅には嘉永七年(1854年)にペリー提督が訪問している事がペリー提督日本遠征記に書かれている。徳右衛門さんは日米和親条約成立の際の接待一切を担当された、歴史の影の立役者でもある。
石川町の基になったお代官、石川家の長屋門です。
| 名前 |
旧石川代官所長屋門 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.2 |
| 住所 |
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太平の眠りを覚ます黒船が浦賀に来航した頃、横浜村の名主で代官を兼ねていたのが石川家で、その屋敷の長屋門が残っています。当時、農民や町民で長屋門を建てられるのは格式の高い家に限られました。ペリーもこの屋敷を訪問して歓待を受けたようです。この屋敷のある坂も「代官坂」と呼ばれ、上っていけば洋館などが点在する山手の尾根道に行けます。武士でもないのに「代官」と呼ばれたの?と、疑問に思うかもしれませんが、名主や町年寄で幕府や藩の公認で代官となっている例はいくつかあります。また、旗本の領地を管理する名主クラスの農民なども幕府公認ではありませんが「代官」と呼ばれて特権を得ていました。