土佐坊昌俊邸址、歴史の息吹を感じて。
土佐坊昌俊邸址碑の特徴
宝戒寺前の小町大路を歩いて、土佐坊昌俊邸址碑を見つけましょう。
東勝寺跡から金沢街道へ向かう途中に、目を引く石碑が立っています。
義経の刺客として名高い土佐坊昌俊の居館跡をご訪問ください。
宝戒寺の前の小町大路を少し歩いた所に土佐坊昌俊の邸趾の石碑があります。土佐坊昌俊は源頼朝の命で京にいた源義経を襲いましたが失敗し、逆に討たれました。頼朝が義経を討伐する者を募っていた時、誰もが躊躇している中で昌俊が進んで引き受けたとのことです。出陣の時に昌俊は頼朝に、国に残った母親と幼い子供達の面倒を願ったことが書かれています。
東勝寺跡から金沢街道に出る途中で石碑が立っているのを見つけました。石碑以外には特に何も残ってないですが、狭いエリアに約150年間の鎌倉時代の歴史が凝縮されているのだとしみじみ感じました。
在京中の源義経を討とうとして返り討ちにされた土佐坊。今は石碑が1つだけ。
義経の刺客として有名な土佐坊昌俊の居館跡。この碑のみです。
49.土佐坊昌俊邸址アクセス:JR鎌倉駅から宝戒寺まで徒歩約15分 宝戒寺門前を横切る道を大町方面へ少し行くと道沿い右手にあります。~ 頼朝が京に送り込んだ義経襲撃の刺客、土佐坊昌俊 ~ 『この土佐坊の死を賭した活躍により、義経は、襲撃を受けた翌日、後白河法皇より「頼朝追討」の院宣を受けました。義経は、後白河法皇にとりこまれたのです。 このことにより、ついに義経は、頼朝に堂々と追討されることになってしまったのです。』土佐坊昌俊(とさのぼう しょうしゅん)は、源頼朝に仕えた僧・武将。 昌俊は、奈良興福寺金剛堂の堂衆だったが、大和国針の庄の代官を夜討ちして捕らえられ、土肥実平に預けられた。 土肥実平とともに関東に下向したのち頼朝に臣従していたのだという。 1185年(元暦2年)10月9日、鎌倉の頼朝は、義経を討つことを決意し、土佐坊昌俊を刺客として京に送り込むことが決定されました。義経追討について多くの御家人が辞退する中、昌俊は自らがその役を買って出たのだといいます。そして、下野国にいる年老いた母と幼い子のことを頼朝に頼んでいたといいます。 83騎を率いて京へと向かった昌俊は、10月17日、60数騎の軍勢で義経の六条室町の邸を襲撃します。 義経は、佐藤忠信らを引き連れて自ら邸の門を開き攻撃してきたといいます。 そのうち、騒ぎを聞きつけた行家らの軍勢も駆けつけ、挟み撃ちとなってしまった昌俊は、退散せざるを得なくなりました。 鞍馬山に逃げ込んだ昌俊は、捕らえられ、10月26日、六条河原で斬首されています。ちなみに、 土肥実平(どいさねひら)は、 桓武平氏の血をひく相模の豪族中村氏の一族。(現在の湯河原町、真鶴町を本拠としていた武将。) 1180年(治承4年)、源頼朝の挙兵には、中村一族を率いて参陣。 石橋山の戦いで大庭景親軍に大敗した頼朝は、土肥実平の手引きによって土肥の椙山に逃げた。 その後、頼朝は箱根権現に身を寄せるが、再び椙山に戻り、「しとどの窟」で数日間を過ごした。 「しとどの窟」に食糧を運んだのが土肥実平の妻だったといわれている。 そして、大庭軍の目が遠ざかったのを見計らって、真鶴半島まで駆け下り海路で安房へ渡らせる手引きをした。 その後も、平家討伐や奥州征伐に参陣するなど大きな功績を残している。 1191年(建久2年)、この年の暮れごろ亡くなったものと考えられている。
宝戒寺の少し先、道路の脇、民家の敷地のような場所にあります。
名前 |
土佐坊昌俊邸址碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
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道路脇に碑があります。