歴史感じる波打つレンガ塀。
内匠堀跡(たくみぼりあと)の特徴
昔の用水路跡が小学校の一部となっています。
約15kmにわたる水路の魅力を感じる場所です。
珍しい波打つレンガ調の塀が印象的です。
今では、行徳・南行徳の小中学校の授業では南行小を除いて,教えられることもないかもしれませんが、鎌ヶ谷から浦安の当代島まで,約15kmにわたって水路が開かれていました。 内匠堀は南行小の正門前を流れており,現在は内匠堀プロムナードなるものが作られ,市川市の小さな自己満足になっています。(川向こうの江戸川区では親水公園・親水緑道が整備され昔の用水路が可能な限り,形を変えながらも残っています。ここを参照してください。)南行徳では一カ所だけ,新井川の埋め立てられた跡地が緑道になっています,約300m程ですが貴重なオアシスです。よく自治会の方々が掃除をしてくださっています。 内匠堀は縄文時代後期に市川砂州が形成されて以来、初めて市川砂州を切り開いて、水路が通されたのです。市川駅のほうでは,下出口用水が同時期に開削され,幾筋かの流れが市川砂州を横切るようになります。真間から北方にかけての盆地にとって真間川の根本以外に排水路ができたことで大きな水たまりが縮小し,新田開発が行われ耕地が増える結果になりました。実はこのことも内匠堀が掘られた理由の一つなのです。 内匠堀の川幅は私の記憶では4mほど有りました。古八幡あたりは少し狭く3m前後だったようです。行徳・南行徳では余裕で船が通行できるくらいの深さもありました。(50~80cmほど) 内匠堀が掘られた経緯・正確な年代を物語る資料は「葛飾誌略」の簡単な記述以外、全くありません。ここでは内匠堀が必要とされた理由をもとに、完成した年代・内匠堀開削に携わった人々は誰なのか推理してみたいと思います。 下記に鎌ヶ谷から当代島までの内匠堀の流れを現在の地図上に記入してみました。市川インター周辺は地形が極端に変わっているため、正確性を欠いています。
今や小学校の一部(原文)现在已成为小学的一部分。
珍しい天端が波打つレンガ調の塀。コンクリートにレンガ調のタイルを貼っているかんじ。
名前 |
内匠堀跡(たくみぼりあと) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.4 |
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昔の用水路後です。