高済寺の高坂館跡で歴史探訪!
高坂館跡の特徴
高坂館跡は、高済寺の隣に位置する歴史的な城跡です。
約100mの土塁と堀が、戦国時代の名残を今に伝えています。
都幾川の河岸段丘に築かれた、かつての大きな城の跡です。
2019/2/20戦国期には北条家臣高坂氏、徳川期からは加賀爪氏が居住していた。現在残る大規模な土塁や堀は加賀爪氏時代のものだろうか。江戸期にこれだけ巨大な土塁が必要だったとは思えないから、やはり戦国期の高坂氏時代のものだろうか。たいしたことないと思って訪れたらびっくるするぐらいの遺構であった。当時は今の高済寺周辺だけでなく、道を挟んだ南側にも曲輪が存在し周囲には堀がめぐらせれていたらしい。
高済寺のある高坂館跡は城郭化された館跡で北側と東側は高台と川や湿地があり西側はと南側には土塁と堀があったようですが、今は西側に高い土塁と深い堀が残しています。高坂氏の館から戦国時代には城郭かされたようです。高坂館跡の説明板が土塁の手前にあります。
南北朝時代と戦国時代で縄張?敷地?が違うようです。土塁上には後者の領主加賀爪氏累代の墓が建っています。
館は都幾川の河岸段丘の端に築かれ、遺構は高済寺の西側に土塁と堀を残し、土塁は長さ約100m、高さ2m~6m、幅約4mを測ります。空堀は幅約8m、深さ約3mを測ります。館の規模は高済寺の周辺、東西170m×南北230mを有するものと思われます。南側は宅地開発により面影を見ることは難しいです。それにしても館の土塁とは思えない規模で驚きます。
都幾川の河岸段丘上に築かれた、もとはそこそこ大きな城だったらしい。北側と東側が段丘厓に囲まれ、西側が空堀と土塁に護られていることは現在でも確認できます。しかし、道路と宅地造成によって、最も厳重であった筈の南側の遺構が確認できません。見学するには、駐車場などありませんので、北側の河川敷内の公園か付近の路駐で。遺構を見るにはお寺や墓地の敷地に入ることになりますので、一声かけて。最近西側の空堀の発掘調査が行われたようです。さらに、北に向かって伐採が進んでますので、調査の範囲を広げるのかも。
名前 |
高坂館跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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評価 |
3.6 |
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高済寺にある高坂館跡。立派な土塁と掘が残っていますが土塁は結構草が生えているので、もう少し整備して欲しいです。土塁を登った一番高い場所には加賀爪氏塁代のお墓があります。