大杉谷圓光寺跡の霊泉、心癒す名泉。
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| 名前 |
大杉谷圓光寺跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
4.5 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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小松市の山中に残る大杉谷圓光寺跡は、蓮如上人と異母弟・蓮照との因縁を伝える中世寺院の旧跡であり、その一角に湧く霊泉「お杖の名泉」と共に、北陸における浄土真宗布教史の舞台として知られる。室町時代中期、応仁の乱を前にして本願寺内部では継職を巡る争いが起きた。本願寺第7世・存如の死後、後継者の座を巡って、正室の子である蓮如と、継室・如円尼の子である応玄(蓮照)との間で対立が生じた。最終的に蓮如が第8世を継承するも、敗れた蓮照と如円尼は財物を携えて本願寺を出奔し、北陸加賀国・能美郡大杉谷の地に移ったと伝えられる。この地において蓮照は道場を開き、後に圓光寺と称された。創建の年次は明確ではないが、宝徳年間(1449〜1452年)の頃とされる。蓮照が拠った大杉谷は、当時すでに浄土真宗の教えが浸透しつつあった加賀門徒の拠点の一つであり、在地勢力の支援を受けて寺基を固めたものと見られる。やがて文明年間に入ると、蓮如上人自身が北陸へ赴いて布教活動を本格化させ、越前国吉崎に御坊を設ける。その過程で蓮如は一度、敵対関係にあった蓮照の許を訪れたとも伝わる。蓮如来訪時にまつわる逸話として、炊事用の水が乏しかった折、蓮如が地面を杖で突くと清泉が湧き出たという話が残されている。この霊泉は「お杖の名泉」と称され、今も山中でこんこんと湧き続けている。この伝承にちなみ、現地には「蓮如上人お杖の名泉」と刻まれた石碑が立ち、近くの山道を進むと、さらに「圓光寺発祥之地」と記された石柱が建てられている。遺構としては礎石や伽藍の痕跡は確認しにくいが、地表に広がる平坦地と苔むした石組み、そして霊泉の湧出点が、往時の寺域をしのばせる。文化財としての指定は受けていないものの、地元門徒によって維持管理が行われ、案内板や石標などが整備されている。その後、圓光寺は時代の変化に伴い山中から下大杉の里へ移り、昭和中期にはさらに小松市千木野町へ再度移転した。現在もこの地に「円光寺」が存続し、真宗大谷派に属して往時の法灯を継いでいる。境内には蓮照(応玄)の石像も安置され、開基の顕彰が続いている。また、大杉谷周辺には「山崎城跡」と伝わる地もあり、圓光寺を守るために土豪・山崎高五郎が築いたとされる。伝承では、蓮如の霊泉が湧く地点こそがその山城の跡であるとも言われるが、実在は定かでない。こうした伝説の中にあっても、圓光寺跡に刻まれた蓮如と蓮照の接点は、宗門史上の一つの転機を象徴する存在である。さらに、蓮如上人ゆかりの史跡としては、越前の吉崎御坊跡や、加賀三門徒寺と称される金沢本泉寺・松岡寺・山田光教寺などが知られており、それらと併せて圓光寺跡を訪ねることで、蓮如の北陸布教の全体像を立体的に理解することができる。このように、大杉谷圓光寺跡は、宗門の分裂と和解、そして蓮如の苦闘の歩みを静かに伝える地である。目立った遺構や華美な施設があるわけではないが、山中に湧く一筋の泉と、それを囲む静謐な環境が、かえって歴史の重みを際立たせている。訪れる者は、喧騒から離れたこの場所で、中世の宗教史の一幕を肌で感じ取ることができるだろう。