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| 名前 |
紀念碑(大杉上町) |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
3.0 |
| 住所 |
|
小松市大杉町の山間にひっそりと立つ紀念碑は、かつてこの地から出征した人々の名を刻み、日清戦争の記憶を今に伝えている。地域では「大杉上町の紀念碑」と呼ばれ、風雪にさらされながらもおよそ130年近く、静かに人々を見守り続けてきた。この紀念碑は、明治29年(1896年)に建立されたとされている。日清戦争が終結した翌年、全国的に「戦役記念碑」や「従軍紀念碑」の建立が相次いだ時期であり、大杉地区でも地域の有志や旧在郷軍人らによって、出征者の功績を後世に伝える目的でこの碑が建てられた。碑の正面には「紀念碑」と題字が彫られているが、長年の風化により上部は判読が難しくなっている。側面や台座には、当時出征したとされる地域の人々の氏名が刻まれており、戦没者の顕彰というよりも、従軍者全体を記憶に留める記念碑としての性格が強い。碑文の詳細は現在判読が難しいが、現地に残された形状や刻銘の痕跡、また他地域の同時期の記念碑事例と照合することで、建立の背景がある程度推定されている。大杉上町のこの碑も、戦役終結と勝利を記念して建てられた一連の戦争記念碑のひとつであり、地域の誇りを象徴する存在であったと考えられる。地域に伝わる口碑によれば、この碑の建立後には記念式典や奉祝行事が行われ、地域住民が参列する催しもあったとされる。ただし記録資料の残存は乏しく、そうした出来事がどの程度継続されたのかは不明である。第二次世界大戦後、多くの戦争関連記念物が撤去・放置された例もある中で、この大杉上町の紀念碑は撤去されることなく存置され続けている。碑の性格が軍功の顕彰というよりも地域の歴史を伝える記録的なものであったためか、戦後も住民によって大切にされてきたようである。現在この紀念碑は、赤瀬ダム湖畔のレクリエーション広場に隣接する一角に立地している。昭和53年(1978年)にダムが完成した際、旧大杉地区の一部は水没し、多くの建造物や田畑が湖底に沈んだ。このため、紀念碑の位置もやや移動している可能性があるが、現在も丘の斜面上に石段が設けられ、訪れた人が碑のそばまで登ることができるようになっている。紀念碑の周辺には、地域の歴史を伝える複数の史跡も見られる。たとえば、近くにある御保谷(おぼたに)関所跡は、江戸時代に加賀藩と幕府領の境界として設けられていた場所とされる。地域の資料によると、ここには番所が置かれ、武士が詰めて通行の監視を行っていたと伝えられる。現在は遺構はほとんど残っていないが、石碑と案内板によって往時の姿が偲ばれている。また、紀念碑から近い場所には、応神天皇を祀る八幡神社も鎮座している。この神社は古くから武運の神として信仰されており、戦役紀念碑との関係性を想起させる配置となっている。境内には推定樹齢450年のイチョウの古木があり、市の天然記念物にも指定されている。地域の伝承では、この神社は山崎城の旧領主や関所の関係者にも信仰されていたとされる。さらに、紀念碑の背後に見える城山には、かつて山崎高五郎という人物によって築かれたとされる山崎城の跡がある。中世の山城であり、曲輪や堀切などの明確な遺構は少ないものの、「城山」という名称で地域に親しまれてきた。この山は太平洋戦争中には防空監視哨が設けられた場所でもあり、石垣状の基礎が一部残されている。山頂からは大杉地区一帯や赤瀬ダムを一望できることから、戦時中には重要な監視地点だったことがうかがえる。このように、大杉上町の紀念碑は、単なる一基の戦争記念碑ではない。周囲に点在する史跡や伝承とあわせて見ることで、江戸時代の関所制度から、明治期の戦役動員、そして昭和の戦争・開発による地域変容まで、地域の歴史の層を読み解く手がかりとなっている。現在では特に注目される存在ではないかもしれないが、地域の記憶を静かに受け継ぎ、次代に橋渡しする石造物として、この地に立ち続けている。