縄文時代の息吹を感じる西原遺跡。
西原遺跡の特徴
縄文時代の集落跡で、約5,000~3,000年前の歴史が感じられます。
南砺市城端町西原に位置し、歴史的価値がある遺跡です。
撮影された案内板が折れていることが、訪問者の反応を呼んでいます。
投稿されている写真の案内板は、ストビューによると折れている様です。立野原演習場に伴い、移動を余儀なくされた住人がこの地に移住してきた時に、色々と発掘された模様。縄文時代中期から後期の集落遺跡で11棟の竪穴住居跡が広範囲に渡り発見されたとの事。竪穴住居跡は、石組みの炉をもつ4本柱のもので、工事の計画変更によって埋蔵保存されているらしいので、現状は何も観れるものは無さそう!
| 名前 |
西原遺跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP |
https://culture-archives.city.nanto.toyama.jp/culture/bunkazai/bunkazai0190/ |
| 評価 |
3.5 |
| 住所 |
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西原遺跡(にしはらいせき)は、南砺市城端町西原(大宮野新)に位置する縄文時代の集落跡で、縄文中期から後期(約5,000~3,000年前)のものだ。地元の人々にはかつて示野遺跡(しめのいせき)とも呼ばれていたらしい。西原遺跡の存在が広く知られるようになったのは大正時代初期で、この地で縄文土器の破片が発見されたのがきっかけだ。1925年には試掘調査で住居跡が確認され、その後、昭和49年(1974年)には城端町(現在の南砺市)の史跡として正式に指定された。発掘調査の結果、縄文時代中期から後期の竪穴住居跡が多数確認されている。特に大規模な調査は1973~74年の農地改良工事の際に行われ、11棟の竪穴住居跡と一本の溝が発見された。遺跡保存の重要性が認識され、この計画は見直されて遺跡は地中に保存されることになった。その後、1996年にはさらに4棟の住居跡と3基の炉跡が発見され、翌1997年には集落を二分していた谷状地形も確認された。この調査結果から、西原遺跡が城端町内で最も大規模な縄文集落であることがはっきりした。西原遺跡から出土した土器は、縄文時代中期に特徴的な「串田新式(くしだしんしき)」と呼ばれるタイプだ。深鉢型で、表面には渦巻き文様や耳状の突起が見られ、縄文人たちの高度な技術力や美意識を感じることができる。また、住居跡周辺からは打製石斧(だせいせきふ)や磨製石斧(ませんせきふ)、石皿や石棒、さらには石錘(せきすい)なども見つかっており、当時の暮らしぶりを鮮明に物語っている。遺跡の調査で特に目を引くのが土偶(どぐう)の存在だ。一般的に土偶は女性の形を模したもので、豊穣や子孫繁栄を願う祭祀や祈りの道具として使われていたと考えられている。西原遺跡からも縄文時代中期の土偶が出土しており、この地域でも土偶を通じて何らかの祭祀や祈りが行われていた可能性が高い。遺跡から確認された竪穴住居は半地下式の建物で、中央には炉が設置されていた。火を焚いて煮炊きや暖房をしていたと推測される。面白いことに、西原遺跡の集落配置は時代を経て移動したらしく、最初は西側の高台に広がり、その後、後期になると東側の平地に移動したようだ。土地の特性を上手く利用して住環境を整えていた様子が伝わってくる。縄文人の生活は自然と深く結びついていた。彼らは川や森の恵みに感謝し、精霊への祈りや祭りを欠かさなかったという。西原遺跡の土器に刻まれた波状文様も、水や生命力への祈りを示している可能性が高い。動物の骨や貝殻も見つかっており、これらを使った祭りや儀礼が行われていたことも推測される。西原遺跡は単なる古代の遺構にとどまらず、この土地に暮らした縄文人の生活や信仰、そして地域の歴史そのものを静かに語りかけている場所だ。彼らの残した土器や土偶、住居跡からは当時の人々の息遣いや、生活の知恵、祈りや願いまでもが伝わってくるようだ。縄文時代という遥かな昔の暮らしを想像しながら、地域の歴史を改めて感じることができる貴重な場所だと思う。