立山信仰の聖地、上原砂防ダム。
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| 名前 |
上原砂防ダム |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
4.5 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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上市町の山間にある上原砂防ダムは、立山信仰と修験の記憶を今に伝える伊折谷の奥に築かれた大型堰堤である。山・水・雷の神々を祀るゾロメキ神社が守るこの谷は、古くから山岳信仰と人々の暮らしが交差する場所であり、戦国時代の武将・佐々成政が越中から信濃へ越えたという「さらさら越え」の伝承地・馬場島をも擁している。そうした土地に建設された上原砂防ダムは、単なる治水施設ではなく、地域の歴史と自然と共にある土木遺産である。上原砂防ダムは、富山県東部を流れる早月川の最上流域に位置する。早月川は剱岳を水源とする急峻な河川で、その勾配は平均して8%以上に及ぶ。短い流路で急激に海へと注ぐ性質から、早月川は「暴れ川」として古くから恐れられてきた。流域ではしばしば土砂災害が発生しており、こうした自然条件に対応するため、昭和後期以降に県主体で複数の砂防施設が建設された。中でも上原砂防ダムは、源流域での土石流を直接制御する拠点堰堤として計画されたもので、周辺の中村砂防堰堤、高島砂防堰堤と並ぶ重要施設に位置付けられている。砂防事業の背景には、富山県が長年向き合ってきた土砂災害との闘いがある。特に1858年の飛越地震では立山の鳶山が崩壊し、天然ダムの決壊による大規模な土石流が常願寺川流域を襲った。以降、富山県では全国に先駆けて近代的な砂防技術の導入が進み、オランダ人技師デ・レイケの助言を得て明治後期には河川改修が着手された。立山カルデラでは明治39年から20年計画の県営砂防工事が始まったが、1919年・1922年の大規模土石流で甚大な被害を受け、再構築を余儀なくされた。これを契機に昭和初期からは国直轄の事業として再編され、赤木正雄の指導のもとで本宮・白岩・泥谷などの大型堰堤が相次いで築造された。上原砂防ダムもこの系譜を引く存在である。正式な竣工年は公文書で確認されていないが、昭和50〜60年代にかけて整備されたと考えられており、早月川の砂防事業の中でも上流制御型の基幹施設としての機能を担う。ダム本体はコンクリート重力式で、流路中央に堆積する土砂を長期的に抑制する構造となっており、完成当時は県営事業の中でも最大級の貯砂容量を有したとされる。加えて、貯砂機能の維持のため定期的に掘削・補強工事が行われており、長期間にわたり安定した機能を発揮している。このダムが築かれた伊折谷には、古くから山岳修験の伝承が残る。伊折という地名そのものが「庵(いおり)」に由来するとされ、かつて剱岳信仰の行者が活動した場所だったとも言われている。隣接する馬場島は、戦国大名・佐々成政が越中から信州へ冬の立山越えを果たす際、愛馬をこの地に残したことからその名がついたと伝えられている。こうした歴史的逸話は、地元の記憶と景観に今も深く根付いている。また、上原砂防ダムの近くには1958年に建立されたゾロメキ神社がある。この小さな祠は、富山営林署と北陸電力の関係者が協議のうえ、山の神、水の神、雷の神の三柱を合わせて祀ったものである。神社名の「ゾロメキ」は、雷鳴を表す地元方言に由来するとされ、雷神を象徴する名として選ばれた。神社は早月川に面した岩の上に立ち、春秋の例祭では林業関係者や地元住民が集って安全を祈願するなど、現在も信仰の場として大切にされている。中村地区には、樹齢500年を超えるとされる「中村の大杉」もある。高さ35mに及ぶこの巨木は、早月川沿いに悠然と立ち、かつては山の神の依代として祀られていたという。この大杉と砂防ダムの存在は、自然と人の共生の象徴でもある。砂防というと、災害時以外は注目されにくい分野であるが、こうした堰堤群が日常の安心を支えている事実は見逃せない。特に上原砂防ダムのような源流制御型施設は、流域下流の発電所や農地を守るとともに、長期的な地形変化をもコントロールしている。早月川下流の扇状地や段丘地形は、こうした上流制御の成果によって形成・維持されてきたものであり、現在の人々の暮らしを静かに支えている。上原砂防ダムを訪れると、背後には剱岳の峻険な姿が聳え、眼前には人工の堰堤が屹立している。その姿は、自然の猛威に向き合いながら、人々がいかにして山と水に挑み、共に暮らしてきたかを語りかけてくるようである。そこには、単なるコンクリート構造物ではない、地域と歴史と自然の接点としての重みがある。