加賀市・富樫の馬塚で歴史探訪。
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| 名前 |
富樫の馬塚 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| 評価 |
3.5 |
| 住所 |
|
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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富樫の馬塚(とがしのうまづか)は、加賀市大聖寺天神下町にある小さな史跡だ。地元でも知る人は限られるが、実はこれが意外に興味深い話を秘めている。まず富樫氏について簡単に説明すると、室町時代に加賀国の守護を務めていた有力な武家だ。初代守護・富樫高家(とがしたかいえ)は、建武2年(1335年)に足利尊氏から守護職を与えられ、加賀国を任された。富樫氏はその後、一時的な中断を挟みながらも約150年にわたり加賀を支配した名族だが、長享2年(1488年)の加賀一向一揆で当主・富樫政親(とがしまさちか)が討たれ、一族の支配は途絶えてしまう。富樫の馬塚にまつわる代表的な伝承は、「敷地馬塚(しきじうまづか)」として江戸時代中期の『三州奇談』にも収録されている逸話だ。室町期のこと、西国から戻る旅の途中、吹雪の夜に道に迷った富樫三郎という武人がいた。飢えと寒さに苦しむ主人のため、忠義な愛馬が農家から祭礼用の餅を奪い取り、それを主人に与えて救ったという。ところが翌朝、馬は菅生石部(すごういそべ)神社の前でなぜか動こうとしない。怒った三郎は刀で馬を斬り捨ててしまった。後になって村人が血まみれで倒れているのが見つかり、実は馬が主人の命を救うために野生の獣と戦い、必死で餅を奪ったことが分かる。三郎は深く悔やみ、馬を弔って祠を建てて供養した。この祠が現在の馬塚だという。この三郎という人物はあくまで伝説上の存在だが、物語にはどこかリアルさがあり、地元でも長く語り継がれてきた理由が分かる気がする。だがこの馬塚にはもう一つ別の説がある。近くにある菅生石部神社は、かつて居入祭(おりいさい)という朝廷ゆかりの神事を行っていた。古くなった神衣(しんい・祭礼で用いる衣服)を埋納する塚が各地に作られていたそうだが、この馬塚もその一つではないかという。実際に菅生石部神社は、用明天皇元年(585年)創建と伝えられ、加賀国二之宮にも数えられた由緒ある古社だ。ここには現在でも、古代から続く祭祀の文化が色濃く残っている。富樫の馬塚周辺は、他にも歴史を感じさせる史跡がいくつかある。特に重要なのが大聖寺城跡(だいしょうじじょうあと)。ここは『太平記』にも登場し、中世の越前・加賀の境を守る要衝だった。戦国期には越前の朝倉氏や一向一揆の勢力が入り乱れて激しく戦った舞台にもなっている。現在は城山公園として整備され、遺構も残されている。また城のふもとには大聖寺藩初代藩主・前田利治(まえだとしはる)の屋敷跡である名園・長流亭(ちょうりゅうてい)も残り、往時の城下町の雰囲気を今に伝えている。さらに馬塚に深く関わる菅生石部神社の背後には、敷地天神山遺跡群(しきじてんじんやまいせきぐん)が広がっている。ここは縄文から弥生、古墳、奈良平安、中世まで幅広い時代の遺跡が重層的に発掘された珍しい場所で、古代から近世まで、この地域が絶えず人々の営みの舞台だったことが分かる貴重な文化財だ。また富樫氏に興味があれば、少し離れた野々市市にある富樫館跡(とがしやかたあと)も必見だ。ここは富樫氏初代守護・高家が本拠とした守護所跡で、発掘調査では建物跡や礎石も確認されている。大聖寺の馬塚伝承と直接のつながりがあるわけではないが、富樫氏がいかに加賀国で影響力を持った一族であったかを感じ取れる重要な史跡だ。富樫の馬塚は、知らなければ見落としてしまいそうな小さな史跡に過ぎない。しかし一歩踏み込めば、そこには富樫氏という武家の栄枯盛衰、そして地域に残された不思議な伝承や古代からの祭礼、さらには中世の戦乱まで、加賀の歴史を垣間見るためのさまざまな物語が秘められている。派手さはないが、深掘りすると実に味わい深い史跡だ。