石田三成ゆかりの桜並木。
石田堤の特徴
忍城水攻めに使用された、石田三成が築いた堤の遺構です。
丸墓山古墳が目の前にあり、歴史を感じる桜並木が広がります。
のぼの城を視た後の訪問で、さらに深い想いが湧く場所です。
忍城水攻めの際に陣を築いた丸墓山古墳の目の前に、一段高くなっている桜並木が石田堤の遺構だそうです。大分削られてしまっています。石田堤は決壊してしまい忍城攻略に至らず無能扱いされる石田三成ですが、元々ご当人は水攻めに消極的だったそうです。上の命令は絶対なのです。
あの有名な「関ケ原の戦い」の時、「徳川家康」さん率いる東軍に寝返った「小早川秀秋」さんの裏切りで、東軍(74,000名)西軍(80,000名)合わせて150,000名以上が戦った大戦なのに、たったの一日で負けてしまい、京都の六条河原刑場の露と消えた「石田三成」さんが造りました。「石田三成」さんが処刑される10年前に「豊臣秀吉」さんの小田原征伐のとき、小田原方に付いた「忍城(オシジョウ)」を水攻めで攻略する際に造成した堤防ですね。現在では「さきたま古墳公園」の「丸墓山(マルハカヤマ)古墳」に続く道として使われています。道は良く整備されていて、道に沿って桜の木が植わっており、春には桜が綺麗でしょう。しかしながら堤防と云っても 思ったより小規模な造りの様にお見受けいたします。「忍城」水攻めは その後 堤防の決壊で失敗に終わります。堤防は「忍城」の周囲28Kmに一週間で造ったと云われいますので、急こしらえだったのでしょうか。この「忍城水攻め」は「石田三成」さんの采配ミスと云われていますが、水攻めを命令したのは水攻めが好きだった「豊臣秀吉」さんだそうですよ。「石田三成」さんご本人が現地を見たうえで攻略法を考えていたら もしかして違う攻め方をなさっていたかもしれませぬ。ムムム 無念じゃ!!
2021/7/6100mほどの桜並木になってます。映画、小説「のぼうの城」で有名になりました。1590年忍城水攻めの際に築かれました。秀吉による小田原侵攻に連動した石田三成によるものです。利根川から荒川まで28kmの堤を5日間で完成しその上流部に水を溜め忍城を水没させました。こちらはその堤の一部です。三成の陣はここのすぐ横の丸墓山古墳の頂上に張られ現在でも忍城曲輪を遠く望む事ができます。この戦は勝負がつく前に小田原城が落ちてしまった為、忍城は負けずして開城をしています。石田堤の遺構はこちら以外にも行田各所に散見されます。
豊臣秀吉公が関東攻めの時、忍城攻略を石田三成に指示し、水攻めの時に築いた堤です。現地に行くと長い堤が残されています。
堤・・・。どこ?あっ‼これ?うそ。本当に?っていう感じです。正直、堤には見えない。というか、長い時間で、雨風によって侵食してしまったのでしょう。他の部分もお百姓さんたちの手によって、田畑に変えられたのでしょう。太閤検地なんかも行われたかも知れませんね。なので耕されてしまったのでしょう。しかし、ここで歴史が起こったことは事実。その雰囲気を味わいましょう。映画『のぼうの城』で有名になった忍城を攻め落とす為に、石田三成が行った、むぼうの策。その名残を感じましょう。
小田原の役忍城攻略のおり豊臣軍にて普請された堤跡。
後に関ヶ原で西軍を指揮する石田三成率いる豊臣軍が忍城を水攻めするにあたり28㎞もの堤防をわずか1週間で築いたとか眼の前には丸墓山古墳塚、豊臣方の本陣映画🎥のぼうの城を視てから訪ねると想いもひとしおかもしれません😊忍城もすぐそばです。
三成がもし忍城を落とし切れていれば、その後の歴史も幾分変わったかも知れないと思わずにはいられない石田堤。丸墓山古墳とは必ずセットで訪れることになると思いますが、古墳頂上からの忍城の眺めは、もし自分が三成だったと考えると絶望しか感じない遠さです。微妙過ぎる微高地に佇む忍城。もう少し範囲を狭くしても良かったのでは、とも思いますがプライドが許さなかったのでしょうか。なぜここにこれ程までの巨大な古墳群が出来たのかという点から、当時の利根川、荒川の流路および沖積平野ということも意識されると良いかもしれません。
説明板読まないと堤であることに気づかない。
名前 |
石田堤 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
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桜並木が石田堤がとのことだけど、もはや土塁の感じはしないな。