菅原道真公が祀られた火除天神社。
火除天神社の特徴
火除天神社は1739年に創建され、歴史を感じる場所です。
祭神は菅原の道眞公で、由緒あるお社として信仰されています。
古い伝承に基づいた、夢のお告げと深い繋がりがあります。
当社の祭神は菅原の道眞公でその由来については宇治山田市史によれば「麓の塵」巻ニのなかに「右は、長禄四年(1460年)の頃乱世にて、播磨国曽弥村に鎮座する 天神社頭廃亡につき伊勢国御師白米彦太夫家に移し置き、その後、夢のお告げによりて覚伝法院に授け法蔵院の寺内に社をたて御像を安置せしより今に至るまで、諸人これを寺庭の天神と稱せり。元文四年(1739年) 8月24日 酉の刻寺庭の天神を二俣町正法寺辺西方に遷幸し奉る。この時初めて宮社を構え社殿を経営、来田監物地類東の方二俣町の屋敷なり。」とある。明治維新後 廃仏毀釈令により、正法寺廃絶。同三年三月二俣町会所世古に遷座した。同四十二年郷社合祀令が出されたが、表通りの田端季禎邸内に高台を築造して密かに奉遷した。そして大正初年再び町会所世古に祀った。古来この天神社は火除天神として尊崇ことのほか篤く、それにまつわる秘話も多い。昭和二十年七月二十九日午前一時頃、アメリカ軍機による宇治山田市大空襲に際し、社殿炎上の際、祭神は白々と光芒を放ち、白龍となって昇天したという。 終戦後、町内有志の方々の献身的なご尽力と町民の協力により同二十六年七月現在地に社殿を奉献、田端定雄氏寄進の菅公御立像(板倉白龍勤刻)を御神体として奉祀し、町民の健康、安全、学業成就と益々の繁栄を祈念している。大祭は、毎年一月二十五日の初天神と、七月二十五日の夏天神との二回とり行われている。
| 名前 |
火除天神社 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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火除天神社(ひよけてんじんしゃ)元文四年(1739年)に二俣町正法寺の境内に宮社を構えた。元々は播磨國曽祢村に鎮座した天神社であったが長禄四年(1460年、室町時代)の頃、世は「長禄・寛正の飢饉」により乱世となり廃社となっていたのを伊勢の御師である白米彦太夫家に移したとされます。