市野々村の悲しみを供養する。
無縁冢の特徴
無縁冢は歴史的な飢饉の哀悼碑です。
天明や宝暦の飢饉で犠牲になった人々を供養しています。
一関市に位置する重要な史跡として訪れる価値があります。
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宝暦の飢饉・天明の飢饉・天保の飢饉による市野々村の死者を供養。
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| 名前 |
無縁冢 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
5.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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無縁冢(むえんづか)この冢は宝暦5年(1755)天明3年(1788)天保4・7・9年(1833〜1838)にわたる大凶作で、飢饉に見舞われ行き倒れになった人たちを供養した碑である。特に天保年間の被害は甚大で、穀物の収穫は皆無となり、村人たちは命を繋ぐため草の根を掘り、山の青葉を摘み、木の皮を齧って糊口を凌いだと言われている。一関藩医の建部 清庵は、宝暦5年に東北地方の大飢饉の惨状に接し、飢饉対策のための『民間備荒録』を著した。 繰り返し襲う飢饉にこの備荒録は人々の命を繋ぐ助けとなった。天保15年(1844)3月、市野々中の人達が集い、村の入り口である老流にこの碑を建てて冥福を祈った。