桐生六郎の館跡で歴史を感じる。
梅原館址の特徴
平安時代末期の桐生六郎の館跡が残る史跡です。
地元の歴史を感じることができる貴重な場所です。
薬師として目のお参りに訪れる方々に親しまれています。
カンナ咲く🎵ハナミズキ朱く染まる🎵
薬師だよ、目のお参りに👀
平安時代末期から鎌倉時代初めの、足利俊綱の家臣の桐生六郎の館跡と推定されています。室町時代に桐生城が築城されると、この地は下屋敷となっていたと考えられています。現在は、梅原薬師堂があり周囲を土塁が囲んでいます。
昔話 、歴史を桐生市の元と成った場所です!豪族の邸🏯跡‼️
こちらは、平安末期の武将であった桐生六郎の館跡であると言われています。寿永2年(1183年)源為義の三男で、頼朝には叔父に当たる志田義広は、常陸国で鎌倉幕府打倒の兵を挙げました。もともと頼朝の呼びかけに応じず、機を窺っていた義広は、足利俊綱、忠綱父子を誘い、鎌倉へ向かって大軍を進発させました。この軍勢のなかには、俊綱の家人であった桐生六郎も加わっていました。義広は小山氏にも声をかけ、小山氏も同心すると言って義広を喜ばせましたが、これは真っ赤な偽りでした。野木宮まで進軍した義広は、にわかに裏切った小山朝政、朝光らに不意を打たれ、大混乱のうちに潰走しました。このとき、足利忠綱は上野国山上郷まで逃れたあと、九州へ向かって落ちのびました。忠綱に従う者は、桐生六郎ただ一人でしたが、ひそかに彼は鎌倉に通じており、主君の首を打って頼朝に差し出し、御家人に加えてくれるよう願い出ました。これを聞いた頼朝は怒り、ただちに六郎の首を打つよう命じ、二つの首はならんで曝されたといいます。のちに柄杓山城を築いた桐生氏は、六郎の後裔であることを恥じ、出自を藤原秀郷系の足利氏であるとしたとも言われているそうです(;_;)/~~~いまは昔を偲ばせる土累が、わずかに残っていました(^_^ゞ
名前 |
梅原館址 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
HP |
https://www.city.kiryu.lg.jp/kankou/bunkazai/1010700/shishitei/shiseki/1002028.html |
評価 |
4.0 |
周辺のオススメ

わずかに土塁と空堀。