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銘板より明治29年(1896)、岐阜県本巣郡生津村字柱本、木野村甚太郎ほか2名は約163haを無償で払い下げ出願(許可は明治31年)。土地は北三線から北六線、基線から東四号の区間。小作人は岐阜県から二十戸が移住しました。農場管理人は八代哲次。明治30年初めに農場の一角を借り「上野製軸所」がマッチ軸を製造していました。この地域の音更川は大きく蛇行し大雨のたびに川は氾濫。流送丸太「あば所」や貯木場から原木が蓬莱側畑地に流失し、貯木場主と耕作農民の間で争いがありました。大正14年(1925)国鉄士幌線が開通し木野駅が開設。事務所を木野大通東九丁目に移転。駅近くに木野雑穀向上を設置し20人位で雑穀を精選し販売していました。今日、農場跡地は国道241号線を中心に市街地が形成させています。