伝説の兜発見地、国宝の神秘。
燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地の特徴
新田義貞の伝説が息づく歴史深い場所です。
福井藩主に献上された兜が発見された地です。
小さな公園の隣に位置する神社があります。
ちなみに新田義貞の首塚が小田原にあります。家臣が郷里の新田庄に届けようとしたのですが果たせなかったようです。
呼ばれて行かせていただきました。街中に清々しさを感じました。ありがとうございました。
国宝が出土した地。新田義貞最期の場所にあたる。
駐車場がない。お寺?に入っていた石碑は古かった。
江戸時代の明暦2年(1656年)にこの古戦場を耕作していた百姓嘉兵衛が兜を掘り出し、福井藩主松平光通に献上した。象嵌が施された筋兜で、かなり身分が高い武将が着用したと思われ、福井藩軍法師範井原番右衛門による鑑定の結果、新田義貞着用の兜として越前松平家にて保管された。また、万治3年(1660年)、福井藩主松平光通は兜が発見された場所に「暦応元年閏七月二日 新田義貞戦死此所」刻んだ石碑を建てた。このことから、この地は「新田塚」と呼ばれるようになった。
あくまでも伝説です。
江戸時代に、藤島の戦いで戦死した新田義貞公着用のものと鑑定された兜が発見された場所。(そもそも300年前の南北朝時代の鉄兜が土の中で残ってる自体が怪しいが…どうも戦国時代の兜のようです。)昭和初期の地図を見ても、近辺に集落はなく、現:国道416号線辺りから灯明寺3丁目・4丁目まで、南北田園のみです。その当時に見ると、より一層感慨深いでしょうね。知らんけど。
新田塚とゆう地名の由来になっています。鎌倉末期 後醍醐天皇の倒幕軍に同族の足利尊氏と共に参戦し鎌倉幕府を倒す。南北朝の動乱期には楠木正成.北畠顕家らと共に、南朝方の有力武将として勇名を馳せた新田義貞の戦没伝説地。小さいながらも祠の様な建物に公園が隣接しています。市街地とゆう事もあり見落としそうな佇まいですが、🅿が設置されれば、なお良いかもしれません。越前北部から加賀南部にかけて、南北朝動乱の激しい抗争の舞台であった様に感じられます。
小さな公園の隣に小さな神社があります。由緒書きとかあったかもしれませんが、気が付きませんでした。歴史に詳しい人ならば、思いに浸れるのでしょう。
名前 |
燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0776-20-0579 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.0 |
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新田義貞は元々は上野国新田荘(現在の群馬県太田市および桐生市・伊勢崎市・みどり市の一部と埼玉県深谷市の一部)の荘園の御家人であった。元弘の乱(1331年 - 1333年)に於いて後醍醐天皇の命を受けた、足利高氏の名代である足利千寿王(後の足利義詮)を総大将とする鎌倉幕府討伐軍のメンバーとして参加をする。義貞の軍はいち早く鎌倉に侵攻し、東勝寺合戦で鎌倉幕府・北条得宗家の本隊を滅ぼすという軍功を立てた。後醍醐天皇による建武の新政樹立の立役者の一人となったのだが、建武の新政樹立後に、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏と後醍醐天皇との間で起きた建武の乱が発生すると、後醍醐天皇側に立って官軍総大将として尊氏と戦う。各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として戦うが、最期はここ越前藤島で戦死した。(諸説あり)関東の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央政権へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯である。