等々力城跡を訪ねる旅。
等々力城跡の特徴
本陣等々力家で等々力城跡の写真を見かけることができる場所です。
西側の墓域では、一部の堀跡が残されている歴史的な史跡です。
轟家のご子孫らしき方に情報を教えてもらえる、親しみある場所です。
西側の墓域の中に堀跡も一部が残っている。
等々力氏によって築かれたと云われる。等々力氏は応永7年(1400年)の大塔合戦で仁科氏の一党として現れるのが初見である。 その後も仁科氏に仕え、天文22年(1553年)以降、武田氏が安曇野に進出し、信玄の五男盛信が仁科家の名跡を継ぐ。永禄10年(1556年)の起請文には等々力豊前守定厚、天正8年(1580年)仁科盛信の書状には等々力治右衛門尉の名が残る。武田氏滅亡後は松本に復帰した小笠原貞慶に従い、大坂冬の陣には小笠原忠脩に従って参陣した。江戸時代には庄屋となって代々続いた。等々力城は現在等々力家として公開されている庄屋宅から、北西に約300m程離れた地点に築かれていた。等々力は地名「とどりき」と読み等々力家も「とどりき」であるが、城郭名は日本城郭大系長野県の中世城館とも「とどろき」とあるのでこちらとしている。現在は小高くなった台地に土塁が残り、水路が巡っているが内部は開墾されており旧状は不明である。東側に等々力城の標柱と不動明王立像がある。
名前 |
等々力城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
2.4 |
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本陣等々力家を訪れた際に等々力城跡の写真が飾られているのを見つけ、施設の方(ひょっとしたら轟家のご子孫かもしれません)に場所を教えていただき、城跡に足を運んでみました。城跡には石碑が建ち、土塁と堀跡が残るのみでした。しかし、かつての郭跡がそのまま耕作地になっており、城があった当時の段差も残っていたので、かつての縄張りを想像しやすかったです。