八荒神社と歴史の息吹。
荒神社の特徴
荒神社には多くの境内社があり、御祭神も多彩です。
創建年代は不詳ですが、由緒ある村社として知られています。
荒川堤防に背を向け、重厚感のある神社です。
八荒神社・一ツ木荒神社(ひとつぎこうじんじゃ)御祭神 火産霊神 澳津彦命 澳津姫命境内社 橘明神 九頭龍大権現 八坂神社 稲荷大明神・氷室大明神 天満宮 塞神複数由緒一ツ木村 荒神社是も(氷川社と同じく)鎮守なり 長泉寺持(「新編武蔵風土記稿」参照)八荒神社は荒川堤防を背にして鎮座しています。創建は、原家の鬼門除けとして祀られたことに始まると伝えられています。原家については、「風土記稿」一ツ木村の項に、以下の様に記されています。「旧家者徳太郎 当村草創の民なり、先祖勘解由良房は武田家人原隼人正が子孫なり、甲州没落の後、久しく当郡松山に住す、文禄年中(1592~1596)当所に土着して、民家に下る、其後良房慶長六年(1601)七十一歳にして卒す、其子右馬祐良清は寛永十六年(1639)六十五歳にして卒す、墳墓竜ケ谷にあり、此正統は則徳太郎なり、良清が次男、原五郎兵衛良親が子孫は、今名主作兵衛是なり」また「天正庚寅松山合戦図」の北曲輪の守備に原勘解由良房・原左馬祐良清の名が見られ、恐らく松山落城により一ツ木村に土着帰農して草分け名主として開発に当たったものと思われます。その後、村の開発が進む中で、当神社は村の鎮守として崇敬を集めるようになり、「風土記稿」には「是も(村の)鎮守なり 長泉寺持」と載せられています。別当の長泉寺も原家の開基で、万治年中(1658~1661)に創建されたと伝えられています。神仏分離により長泉寺の手を離れた当神社は、明治四年(1871)六月に村社となりました。(埼玉県神社庁発行「埼玉の神社」参照)武田信玄の家臣である原家にまつわる龍神伝承武田家には、土岐氏支流の原氏と、千葉氏支流の原氏があります。武田二十四将には土岐氏支流の原昌胤と、千葉氏支流の原虎胤が数えられています。美濃土岐氏の庶流で、武田氏の譜代家老を務めた原氏。原昌胤の三男と言われる原勘解由良房の子孫について「新編武蔵風土記稿」に記載があります。原良房が人間の女性になった龍と交わって子供・原右馬之祐良清が生まれ、その龍は去る時に宝珠を残しました。この宝珠を収めたために、龍珠院(東京都あきる野市)となったという伝承があります。(Wik参照)また、一ツ木には荒神社から南西に直線で約230mの所に氷川神社があり、その一ツ木氷川神社の北側の沼「碗箱淵」にも龍神伝説があります。「この池の伝説によると、武田信玄の家臣の原美濃守虎胤の妻は、諏訪湖にいた竜神の化身で、子供が出来てから宝珠を残して湖に帰ったが、その後、虎胤は吉見領に移り諏訪湖から遠く離れてしまった。その子孫の良方、良清の代には、そばの大沼に向って祈ると膳や椀など不足なく出たという。そのため、この淵を椀箱淵といい、諏訪湖と通じているといわれていた。このため、淵のほとりには龍神を祀った塚があり、かつては耳を患う人の信仰が厚かった。時を経るに従い、淵も逐次埋め立てられ、面積も縮小されて昔日の原形はとどめないが、今は貯水池として農業用に、また、防災用に地域のため大きな役割を担っている。」(「現地案内板」より)
創建年代不詳、村社であった。荒川沿いにある神社で、村社ではあるが情報が無く祭神も不明。近くには氷川神社が多く荒川沿いである為、当社も氷川信仰であるかもしれない。・御朱印無。
名前 |
荒神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.8 |
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重厚感を感じますが隣がトラックの出入りあり煩い。