辰年、巳年の信仰を育む普賢菩薩。
江畔寺の特徴
花の寺4番としての魅力を持ち、見応えのある境内にイチョウがあります。
普賢菩薩が祀られ、特に巳年と辰年の人におすすめです。
住職から教わる観光情報やお茶のサービスが心温まります。
花の寺めぐりで参拝大きな銀杏の木がひときわ目立っていた御朱印いただきました。
観応元年(1350)にあの夢窓疎石が孝槃寺として開山。その後佐竹氏が秋田移封の後に江畔寺(読み方が同じですね)と改称した臨済宗円覚寺派のお寺。弁天堂、禅宗様式の佛殿、勝軍地蔵尊等、見どころ満載でしたが、やはりお寺の歴史を見守り続けてきたであろう大銀杏の大木が一番印象的でした。(•‿•)
山号を南内山と号し、釈迦牟尼仏を御本尊とする臨済宗円覚寺派の寺院で、康永3(1334)年に佐竹三郎義春入道(小瀬三郎義春)の開基、観応元(1350)年に夢窓疎石を招請開山として創建したと伝わります。当寺院に安置される『江畔寺地蔵菩薩坐像』は、常陸大宮市の有形文化財(彫刻)に、境内樹木の樹齢約470年、樹高35m、幹周5.6mの『江畔寺のイチョウ』は、同じく天然記念物に指定されています。広い駐車場あります。
駐車場から少し登ったところにあるお寺で、本堂はとても立派な建屋。本堂玄関にて銀杏や花のスタンプが入った御朱印を直に書いていただきました。つつじもとてもきれいですよ。
花の寺4番のです。読みは江畔寺(こうはんじ)です。大きなイチョウの木があり紅葉の時期は大変見事です。
こちらも花の寺の一つです。車は境内まであがれますが、下の駐車場に停めて階段で上がる方が雰囲気良いです。
花の寺4番。境内はよく整備されている。石段ー登ってすぐにある大銀杏は素晴らしい。開基 建武三年(1336)北朝方佐竹一族が、瓜連南朝方楠木勢を撃破一掃して、佐竹九代貞義の三男義春が、常陸介の官職と緒川流域一帯・大田武石屋敷(8貫500文)、白方(300貫文)、小亀(100余文)、岡田郷(150貫文)の領地を与えられ、領地の中心小瀬に居城を築き、小瀬氏を称した。 康永三年(1344)剃髪入道して、城域の大手門に小庵を営み、小瀬一族の菩提寺の基礎とした。死後、西側山上に勝軍地蔵菩薩を祭祀し、義春の化身仏と尊崇された。 開山 観応元年(1350)義春の三男悟真妙頓(幼名孝繁)が、夢想疎石に学び、夢想疎石を招請開山として孝繁が、開山二世になり南内山 孝槃寺と称し、長兄義益の援助で当寺を開いた。 佐竹一族、秋田に国替 佐竹氏が関ヶ原の戦後処理によって秋田へ転封となり、慶長七年(1602)小瀬一族も宗家に従い秋田に移住し、水戸藩の領地となった。袴田善兵衛栄斎の御縄(検地)の時に、栄斎が江畔寺と改字した。 慶安元年(1648)江戸幕府三代将軍家光公より、ご朱印15石5斗1合・寺内6石7斗3升4合を賜り、上小瀬、氷之沢、野沢村民3百戸の檀家寺となった。 水戸藩徳川光圀の宿泊参詣 元禄五年(1693)光圀が、当山に二泊三日参籠し、漢詩を作った。 門前の小川の清流で斎戒沐浴したので、この地域一帯をお留渕と称されて、聖なる場所として一般人の立ち入りを禁止した。 元禄六年(1694)に古作地蔵菩薩を当山に寄進下された。 幕末の水戸藩 明治維新政府の廃仏毀釈 明暦三年(1697)水戸藩主徳川光圀は、彰考館を開設して「大日本史」の歴史編纂事業をはじめた。それが、幕末の水戸藩主斉昭の尊王攘夷となり、天狗諸生の内乱に発展し、水戸藩は藩内の廃仏毀釈を徹底して行い、多くの由緒寺院を破壊し、神道復古による神葬祭を行うことを領民に強いた。 当寺も無住職状態になり、伽藍は荒廃し、本尊釈迦牟尼仏をはじめ、多くの寺宝は消滅した。 明治二年(1896)江戸幕府が大政奉還し、また、神仏分離令により、当寺は境内地一町歩を残し、明治政府に寺領を全部接収された。
実家の参拝に行きましたが18:00過ぎで入口が防犯対策で車では行けず徒歩でしんどかった。坊さんは相変わらず良い人です!
花の寺としての参拝にもおすすめです。佐竹氏ゆかりのお寺です。
名前 |
江畔寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0295-56-2517 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.1 |
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ちょっと小高い場所に本堂があり見晴らしも良く、境内は綺麗に整備されています、辰・巳年生まれの守護本尊である普賢菩薩堂前にはかわいらしい辰と巳が置かれています。