壬申の乱ゆかりの古墳巡り。
白山神社(君津市俵田)の特徴
古墳横に造営された神社で、深い歴史を感じられます。
壬申の乱で大友皇子が自刃した土地として知られています。
鳥居横には無料駐車場があり、訪れやすい立地です。
この古墳は、小櫃川中流域に臨む舌状の台地上にあり、全長約八八メートル、後円部の高さ約一〇メートルの前方後円墳です。墳丘は、後円部中央にくぼみがありますが、神社の社林として保護され、旧態をよく残して います。後円部に比べ、前方部が低く、幅も前方に向かってさほど広がらない形態を示していることから、対岸の飯籠塚古墳と相前後して構築された、古墳時代前期の古墳と推定されます。本古墳の周辺には、倍冢があり、明治三一年にそのうちの数基が発掘され、古鏡(獣形鏡)、直刀、鉄鏃等が出土したと伝えられています。この付近には、古代馬来田国造が、置かれたといわれていることから、 主墳であるこの古墳はその関係の有力者の墳墓ではないかとみられています。本古墳は、当地域の古代史を知る上で貴重な遺跡です。【現地案内板より抜粋】前方後円墳脇に鎮座する形のお社。境内には、神門、拝殿、本殿が段々になり、摂末社や神輿もあります。駐車場もあり、古墳とセットで参拝が楽しめます。
お詣りした日:令和4年3月15日駐車場:あります静かでゆったりお詣りできます。壬申の乱で負けた大友皇子(弘文天皇)が、逃れてこの君津の地に住んだという伝説があります。その大友皇子が祀られています。本殿の彫刻は、素晴らしいです。また、本殿の組み方も初めて見る組み方でした。房総は、色々な伝説がありますね。大友皇子の子、福王が、袖ヶ浦に逃れて住んだという伝説もあります。福王が祀られている福王神社があります。
ここは壬申の乱で安房国へ逃げ延びた、大友皇子の最後となった土地です。『小櫃』という地名は、この大友皇子を討ち取った際の首を、「櫃」(※厨に似て上に向けて開闔する器のこと。米びつの「びつ」はこの字を当てる。また棺はかつて「屍櫃」と言った)に入れて鎮魂した、という由来によるものだそうです。村の古老曰く、かつては「御櫃」というのがこの土地の名称であり、その後小櫃になったとか。その御櫃を祀っているのがこの神社だそうです。IFの歴史だと思うかも知れませんが、この近隣ではそれらの証拠たり得る貴重な出土品があったものの、当時の千葉県知事が九州から派遣された「余所者」であったため、この話にあまり熱心では無かったことや、「大友皇子は千葉県になぞ行ってはおらんのではないか?」という大正天皇のお言葉で、結局は有耶無耶にされてしまった……、なんて話も聞きました。流石に天皇の言葉を覆す訳にはいかないですが、亜流と捉えられる歴史は、この地にちゃんと根付いているようです。
古墳横に造営されている神社。非常に綺麗にされておりましたが台風による倒木があって奥の方は少し荒れて大変そうです。全体はとても良い雰囲気です。
古墳も近くにありますね。
社伝では、壬申の乱で敗れた大友皇子が東国に逃れこの地で自刃したとされ、その後天武天皇13年(684)に勅使が下向し社殿を造営、皇子を祀り田原神と称したと伝えられている。田原神社と称していたが、明治維新後社名を白山神社と改称した。
近くの塚の上に登ると倒れてしまうという噂もあります.....
少し判りづらいですが久留里街道沿い鳥居横に駐車場があります。駐車場内にトイレもありました。
日本三代実録 元慶八年七月十五日癸酉 田原神。
名前 |
白山神社(君津市俵田) |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0439-56-1697 |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.9 |
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終始、心地いい神社でした。色々な写真が撮れました。ありがとうございます。