桜咲く古社、歴史の響き。
草岡神社の特徴
余呉の庄が開発した日子坐王を祀る神社です。
賤ヶ岳古戦場の歴史的背景が魅力となっています。
神功皇后が訪れたとされる古社の神秘が感じられます。
余呉の庄の開発した日子坐王を祀り、そして、羽柴秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳古戦場であった場所一説には、神功皇后(A.C.170-269年)が敦賀へ行啓のおり、武内宿禰を従えて、当社へ参拝されたといわれるほどの古社。祭神は四柱『高御産巣日神』『 神御産巣日神』『日子坐王命』『菅原道眞』となります。往昔この地方は荒野が多く、枯茅蓬々として狐・狸・幽禽(奥深い静かな所にすむ鳥。幽鳥。)の棲息する場所でした。僅かに住む農民が山麓に1祠堂を創建し、高皇産霊神、神皇霊神を勧請し奉斎したのが初まりです。当初、高皇産霊神、神皇霊神を勧請し奉斎していました。その時、信仰の山を「ムスビ山」と唱え、草岡天神と奉称しました。第9代開化天皇の第3皇子、日子坐王が当地に訪れ、余呉の庄の開発並びに郷民を愛し、産殖に治水事業に努められました。余呉の庄とは、合併前の片岡余呉の地域を上の郷、中の郷、下の郷と分括されて、この社を『上の郷片岡天神』と呼びました。御在世中に御子にあたる崇神天応が行幸されています。故実に日子坐王命国安姫命を入輿し給い、その皇子廉彦王命は池原姫を娶り給い、その又皇子、彦理王命は夜叉池村より伊加津女命を入輿し給いしとあります。この間で草岡郷の太租(君主)となりました。彦坐王命薨(死)後は、本社に(日子坐王命)霊を祀りました。仲哀天皇は、角鹿(今の敦賀)浦に行幸の砌、当社に参拝さられ、この時の武内宿弥言上し、北国街道の当社正面にあたる所、今の今市郷に三畝歩の地を賜りました。また、ここを一般通行人の遙拝所と定め、下余呉地先に木造の鳥居を建てられました。ところがこの鳥居は古びて寛成8年には、石の鳥居に改造されています。その後、京都北野天満宮に菅公が祀られると、この社にも天暦10年に『菅原道眞』勧請し相殿に御鎮座。旧金沢藩主前田利家公は、菅公の末裔なるをもって、北国街道進行の砌は必らず参拝し、神饌料を供えられたといいます。時は移り、社名の呼び方も変っていきました。近世は「片岡天神」と称されていましたが、明治3年旧領主上総国飯野藩士校格を改査し、従来の称号通り「草岡神社」と命名されました。天正11年賤岳の兵火で社殿宝物等は焼失してしまいました。明治9年村社となり明治17年郷社に昇格。そして、ここは戦国時代、天正15年(1583年)羽柴秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳古戦場でもあります。神社の裏山である、天神山には当初秀吉が砦を築いたものの、柴田勢の佐久間森政盛の陣と近く不利と判断した秀吉はこの砦を捨て後退しています。賤ヶ岳の戦いにより社殿、宝物を焼失したという、言い伝えが残ります。
ここ凄い。神域です。
名前 |
草岡神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
4.5 |
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4月5日 桜がきれいでした。