越前朝倉の激闘の舞台。
疋壇城跡の特徴
疋壇城は越前と近江の国境に位置し、歴史の舞台にふさわしい場所です。
朝倉氏の防衛拠点としての役割を果たした立派な遺構が魅力的です。
天守台からは美しい三方の眺望を楽しむことができます。
疋壇城は越前と近江の境目の城で織田朝倉の激戦の舞台のひとつとなりました。朝倉氏は刀根坂の戦いで大敗し疋壇城主も討死しました。その後、朝倉氏は滅亡し疋壇城も廃城となったようです。この周辺には刀根坂の戦いで討死した武将たちの墓が点在しています。疋壇城は小学校やJR北陸本線、田畑によって大部分を改変、喪失していますが、本丸や天守台、石垣などが残されています。残された城域は狭いですが石垣がかなり残っているのは驚かされました。
朝倉氏の越前と近江との国境の要衝の地で、敦賀や金ヶ崎城を守る上でも、朝倉氏にとって重要な支城だったようですが、織田信長の手筒山、金ヶ崎城侵攻の際や刀根坂の戦いの際落城などの攻防の舞台となりました。城跡付近は、畑や廃校になった小学校やJRに隣接するなど、遺構は一部失われている様ですが、主郭跡や堀や石垣など残っており、周辺を見渡せます。
朝倉氏の城の1つです。信長により滅ぼされています。一時期、朝倉義景も入城した記録が有ります。ほぼほぼ、当時の面影が保たれていて素晴らしいです。信長に侵略されながら、破きゃくの跡が少ないのが興奮しました。周りの空堀も試し放題です。石垣は、大切にしないとダメですがね。
櫓台、石垣、空堀などの遺構が残っています。桜の時期に行くととても綺麗です。
石垣が立体的に残る山城跡で、織田信長に滅ぼされたそうです。手前の広い平地は昭和59年に廃校になった西愛発小学校跡地、横にはJRの北陸本線が通っています。ここまで車で上がってこれますが、細い法面の道なので脱輪に注意してください。疋田会館に車を止めて、徒歩で上がってくることもできます。
疋田宿にある山城。本丸、石垣、堀の遺構があり、本丸跡近くの北側には畑が作られてカリンの実がなっていました。何度か行きましたが誰にも会わなかった静かな山城です。すぐ側を北陸本線の電車が通過していきます。
冬に行くと足元がよく分かりません。でも人がいないので撮影には向いてます。踏切は冬期は通行できないみたいです。
久しぶりに新疋田駅迄歩いた。途中、疋壇城跡へ、直ぐに天守台に、残された石垣も見事であった。
小さいながらも石垣などが残っている。曲輪の形がしっかりわかり、素人の私でも面白かった。見晴らしのよい場所にあり、湖西からの道、湖北からの道、嶺南からの道が合流する箇所を扼する位置にある。主廓部分が殆ど畑となっているが、そのことがかえって古城であることを感じさせる。二の丸部分が広いなと感じたが、かつて西愛発小学校があった場所らしい。西愛発小学校は1984年に愛発小学校へ統合。愛発小学校は2005年に中郷小学校へ統合され現在に至っている。
名前 |
疋壇城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
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新疋田駅から歩いて登城しました。駅からは10分ほどでした。この城は、文明年間に朝倉氏の家臣であった疋田対馬守久保によって築城されたと言われています。主郭およびその周辺には石垣が残っていました。また、北陸本線がすぐ近くを通っているので、今は敦賀駅までとなった特急サンダーバードやしらさぎが走っているのを見ることが出来ます。